一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

夜明け仕事

 壮観、洗濯機 4.5キログラム槽三台使い!

 むろん実態は壮観どころか、たんなる無精である。肌着と靴下、Tシャツ、パジャマなどで一槽。ジーパンとジージャン、衣替え後に怠けていた冬物ジャージだの作業用長袖体操着などでもう一槽。さらにシーツ代りのタオルケットと枕カバー代りのバスタオル、溜りに溜った普段の汗拭きタオルや手拭いとハンケチ、それに台所での布巾類を合せて一槽。それぞれ容量ほぼ一杯の計三槽同時稼働である。

 午前三時十分、運転開始。もっと早く、できれば日を跨がぬうちに出掛けてきたかったが、以前よりコインランドリーが遠くなったのと、まさか暑さ負けでもあるまいが妙に躰がだるかったのとで、ついついユーチューブ・スキップに無駄な時を過し、深夜行動となった。巨きな汚れもの袋を二個、超過勤務のサンタクロースのように背負って出かけねばならぬのも、気が重かった。
 他人眼をはばかる気はなかったが、それでも人通り・車通りが絶えた時間だったのは気が楽だ。ランドリーまでは裏道を歩くことなく、ずっと往来を行くのだが、途中で車一台に追い抜かれただけだった。自転車にも歩行者にも出逢わなかった。

 ふと気づく。深夜のわが町は以前より静かだ。中学高校や大学が、まだ本格的な夏休みに入ってないからだろうか。往来歩行者のみならず、公園のベンチで談笑する人影もめったに視ない。愉しげな交友やカップルのデートどころか、携帯の灯りを頼りにベンチで電話する人も視ない。公園の隅にまるで時代遅れの象徴のように公衆電話ボックスが立っているのだが、なにやら外国語の大声で電話する人の姿も、とんと視かけなくなった。
 コロナ禍以降のライフスタイル変化だろうか。屋内にあってスマホ電話しあったり、ラインとやらで短文交信することが、深夜の交友スタイルの標準となったのだろうか。居酒屋で看板まで過して、その後は公園のベンチなどで会話を続けるなんぞという非効率的交友は、好まれぬ時代となったのだろうか。

 壮観、乾燥機7キログラム槽二台使い!

 相前後して停止した三台の洗濯機の中身を、二台の乾燥機に仕分ける。ジーパン・ジージャンや、冬物パジャマ・厚手ジャージや、タオルケット・バスタオルを一台に、その他をもう一台に。
 乾燥機は百円で十分間回る。一台目には三百円を投入し、もう一台は二百円で済む。仕分けずに乾燥機を回して、二台ともに三百円投じるより、百円節約というわけだ。ところがこの仕分けには経験知も勘も必要で、狂いが生じることもある。
 まず必要ないものを三百円槽に入れないというのが大前提だ。厚物、大物の乾燥効率を下げてはならない。また二百円で済むものを余計な時間乾燥することは、長い眼で視れば布地を傷めることにも通じよう。そこで材質・厚み・布密度(織りかた)を視分けるわけだ。厚手でも粗織りのものもあれば、薄手と見えても折返しや縫いしろが複雑なもの、さらにはなにやら芯のごときが内包されているものまである。
 疑わしきは罰せよとばかりに、あれもこれもを三百円槽へ放りこむわけにはゆかない。今度は三百円槽の効率が下って、冬用ジージャンの襟やジーパンのウエストあたりが乾燥不十分のまま、結果として四百円目が必要となったりしては、元も子もない。

 そこで判断境界線のものは、ひとまず二百円槽に放り込んでスタートさせる。乾燥終了のブザーが鳴ったらすぐさま扉を開け、乾いていて当りまえなものを掻き分け、気掛りなものだけを急いで点検する。たいてい勘に狂いはなく、どうにか乾いているものの、ときには襟の縫い目だけが、腋の下だけが、裾のゴム編み部分だけが怪しいというものが発生する。それだけを掴みだして、隣で回転中の三百円槽の扉を開けて急遽一旦停止させ、放り込んで稼働再開させる。コインランドリーにあっては、ここのみに手早さが必要である。

 あたりはすっかり明るくなってきて、早朝の空気である。男のジョガーも女のジョガーも通っていった。ワン公の散歩は、四組も五組も通っていった。大型犬も小型犬も、同じ電柱の根元で匂いを嗅ぐ。出勤だろうか朝一配達だろうか、セダンもワゴンも通っていった。
 肩紐だけで吊ったキャミソール型の服に羽織るものもなく、首も鎖骨も肩も二の腕も露わにした若い女性が、半化粧のハゲチョロケに度の強い眼鏡を掛けて、とぼとぼと歩いてゆく。
 ―― 姐さん、お仕事帰りですかい。お疲れさん。今日も蒸暑くなりそうだ。かまうことねえから、昼過ぎまでガッチリ寝ちまいなさいな。アタシもね、こいつらを片づけちまったら、バタングーを極めこむつもりでしてね。