一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

施餓鬼



 金剛院さまのお施餓鬼会である。餓鬼道で飢える亡者に水や食糧を施す日と云われる。他界したもののいまだ成仏に至らず、餓鬼道を彷徨っている家族へ、水と食糧とを届ける法会とも聴いた。解りやすく申せば、あちらの家族に通信する日だ。盆の帰宅要請について正式招待状を渡す日と考えてもよろしかろう。
 疫病対策から、塔婆を申込むだけで、参集はご遠慮申しあげねばならぬ施餓鬼会が何年か続いた。今年は晴れて、お下げ渡しいただいた塔婆を自分で受取れる法会に復した。正午までに摂氏三十度にも達する、真夏日となった。
 山門をくぐってすぐの参道脇にテントがひと張り。長野県産の野菜や果物の直売店が出ていた。山門外の駐車場では眼にしたこともあったが、境内での出店を眼にするのは初めてだ。これも若住職に代替りしての新機軸だろうか。親しみ深く感じられる賑やかしで、おおいに結構だ。
 大師堂前を守るかのように、特色ある樹形のサルスベリが立っているが、根元にユリがひと株植えられてあってただ今満開。だれの眼をも強く惹く存在となっていた。大師堂も本日はご開帳で、左右に脇侍を従えた色白の大師木造も、ほんの数メートルにまで近づいて拝観できた。


 境内には、ほかにもテントがふた張り。小ぢんまりしたほうのテントでは、墓詣りの来訪者に線香をお分けしたり水桶をお世話したり、本堂へ上る檀家衆を案内したりしている。大ぶりなテントの下には折畳みパイプ椅子が並べられ、堂上を遠慮して外で読経や法話を伺いながら、塔婆お下げ渡しを待つ檀家衆が腰掛けられるようになってある。
 疫病禍以前もさようだったが、私ごとき堂上に上げていただくことは遠慮している。それどころか、境内にて終始神妙に控えることすらしない。無礼勝手をきわめたお詣り方法をつねとしている。

 まず花長さんで花を見つくろってもらい、午後一時より前には山門をくぐった。まだ法会は始まっていない。堂上の席を予約なさった檀家衆が、庫裏の広間でご接待に与っておられる時分だ。ご本堂はがらんとしているものの、真新しい塔婆はすでに大束に束ねられて、ご本堂前に立てかけられてある。これから法会で魂を込めていただくのだ。
 末寺から数多くの寺男衆が手伝いに見えていて、視慣れぬ顔も多いが、日ごろ顔馴染の男衆も総出だ。会釈したり声掛けしたり、水桶をいただいたりしたら、一目散に裏手の墓地へ。線香と水と花とで、自分だけさっさと自家の墓詣りを済ませてしまう。
 「父さん母さん、お塔婆はもうちょいと待ってよ。あとでまた来るから」

 まことにバチ当りながら、この熱暑に境内にて法会に立会うのは現有体力の容量を超える。ロッテリアの二階へと退避する。
 いよいよ読経が始まったな……そろそろ法話へと移ったころだろうか……塔婆への魂入れだ、本日捧げられるいく百本もの塔婆の一本残らずについて、戒名と志主とが延々と読み上げられる。
 ジンジャーエールを飲みながら、読みかけの本を読み継ぎながらだって、ご本堂での次第のおおかたは眼に見えるようだ。


 午後三時半、そろそろだ。多少待たされることはやむをえないが、遅刻はまずい。ふたたび山門をくぐる。グッドタイミング! 寺男衆がわさわさと動きだして、塔婆の大束をほぐし始め、墓所の区画別・戸別に仕分け始めるところだった。
 拙宅墓所へと先回りして、わが区画の束の到着を待つ。末寺のお若い僧だろうか、初めて会う頭の丸い青年が、抱きかかえてきた大束を拙宅墓所を含む一画の外れに立掛けた。ご挨拶して名乗ると、ほどいた束を点検して、まっ先に拙宅分を抜出し、手渡してくださった。拙宅墓所の住人は両親だけだから、塔婆はたった二本。旧家のかたがたに較べれば、面目ないほど小口の檀家である。

 疫病禍ゆえに形成されてしまった怠慢傾向だろうか、お下げ渡しいただいたお塔婆を、手ずから受取らずに、お寺任せで墓石背後に立てていただく家が増えた。寺男衆や若い修行僧がたによる人海戦術である。
 それぞれのご家庭にご事情あろうとは承知しつつも、情感としては納得できぬものが残る。真新しきお塔婆を押し戴き、みずからの手で自家の墓所に立て、ささやかな墓詣りの儀式となさる姿が、観渡せばあっちにもこっちにも、ちらりほらり。突如として徒然草ではないが、いとゆかしきお姿にこそありけれ。
 お父つぁん、おっ母さん、餓鬼道ってのはえらく喉が渇く所だってじゃないですか。こっちは梅雨です。嫌っちゅうほど、水、届けますぜ。なにせ今日は、さような日なのである。