一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

作業見物



 高いところ、地中や水中深いところ、狭いところ、足場の悪い危険なところで仕事をなさるかたには、無条件で尊敬の念が湧く。

 小雨もようの日、二日間にわたって拙宅前からほど近くで作業をなさる二人組があった。設営であれ清掃であれ処理であれ、とかく作業というものを見学するのが昔から好きで、通りしなについ立ち停まって眺め入ったりすることも多い。
 作業分野にもよろうが、当方が幼児少年であった時分には、概して作業員さんがたも笑顔がちで、なんなら説明してあげようか、と云い出しそうなほど優しかった。当時はまだ近所にもあった、木工所や鉄工所や瓦製造工場の職工さんがたも同様だ。きっと踏切り脇で必死に手を振る幼児のために、電車の運転士さんがホーンを鳴らしてくださるようなものだったろう。
 学生だったり若手会社員だったりした時分には、こちらへチラリと眼を配ったきり、ことさらに無視された。意図的に気づかぬふりをされたようにも見えた。
 中年初老のころともなると、早くあっちへ行けというような、迷惑そうな顔をされるようにもなった。なんらかの監視か調査を目的としている、胡散臭い者とでも視られたのだったろうか。
 最近では、暇な痴呆老人とでも視られるものか、同情なのか憐みなのか、どことなしに蔑みの眼差しを向けられることが多い。
 作業員さんや職人さんの気質が、時代によって違ってきているのかもしれず、まったくもって信憑性のない経験値である。

 近年ますます、自分の風体が胡散臭いものとなってきているとは、百も承知だ。無難に無視していただこうとすれば、当方から安心用剤をひと振りしなければならない。ひと仕事済んだか、下ってきたワゴンクレーンの作業員さんと眼が合った。
 「失礼かとは思いましたが、お仕事中をワンカット撮らせていただきましたぁ」
 差支えない、了承したというように、笑顔を見せてくれた。彼は二人組の若いほうで、年配のほうは運転席でクレーンを操作していた。

 ベーカリーでの買物を済ませて戻ると、クレーンは折り縮められワゴンも仕舞われて、お二人は清掃と撤収準備をしておられた。今度は二人ともと眼が合った。会釈しないわけにもゆかない。
 「電線修理ですか?」
 「送信線です」年配が応えた。
 「ソ・ウ・シ・ン?」
 「光ファイバーのメンテナですわ」今度は若いほう。
 「なるほど」
 このほうが判りやすい。私も迂闊だ。車のどてっぱらに、NTT のロゴがでかでかと書かれてあるではないか。
 「このロゴを一枚撮らせていただいても、よろしいでしょうか?」
 年配作業員の顔には、とたんに警戒の表情が浮んだ。
 「投稿じゃないでしょうね」
 「いいえ、もし投稿するにしても私の日記で、金銭が絡むことは絶対にありえませんから」
 それならと、渋しぶ納得の表情となった。若いほうは、最初から気にもしていない顔つきだった。

 電電公社の下請け会社で作業員をしているトマリさんという男と、近所のスナック「木曽路」で飲み仲間だった時代がある。四十年以上も前だ。なんでも東京駅だか銀座だかの地下何十メートルの深さには、そんじょそこらの作業員なんぞが足を踏み入れる機会もない電話線が通っていて、そこは真夏でも肌寒く、全身防寒作業服を着用し、防寒手袋でむずかしい作業に従事するとのことだった。エレベーターなんぞないから、折れ曲った面倒な階段を延々とくだってゆくのだとも聴いた。川床よりも、地下鉄よりも、ずっと深い現場での噺だった。
 「一度でいいから、そんな世界を観てみたいもんだなぁ。トマちゃん、なんとかならない?」
 生来の悪癖で、私はしきりとねだった。そんなこと許されるはずがないと、にべもない応えだったことは申すまでもない。せめてドキュメンタリー映像などを観たいもんだと訊ねたところ、なにやら機密事項でもあるものか、撮影された前例などないとの応えだった。

 「木曽路」が廃業し、トマリさんとの音信絶えてからいく年も経ったころ、かつてのママさんと偶然ご一緒する機会があった。電電公社が民営化されて NTT になったとき、いかに腕の立つ職人だったとはいえ、お愛想も派閥泳ぎもからっきし不得手なトマリさんは、板挟みの変な立場に追込まれて馘になり、郷里へ帰っていったとのことだった。
 「あれほど視てみたいって云ってたんだから、多岐チャンをこっそり案内しちゃえばよかったかなぁ」
 ママさんと最後に会った日まで、そう云ってたそうだ。

 むろんトマリさんと再会する機会はなかった。今ではトマリさんの顔すら、正確には思い出せない。笑ったときの前歯に特徴のある人だった。ミュージシャンで役者のモト冬樹さんがデビューなさったときに、アッ、トマちゃんに似ているなと感じた記憶だけが残っている。