一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

朝だ



 朝だ。ザマアみやがれ!

 現代詩と現代思想の研究家であるお若い友人から、雑誌の特集企画の参考とすべく、アンケートに応えよとの要請があった。私はもはや現代人たるの資格を喪失した人間であり、ご意向に沿う条件を満たさぬものだというのが、まずもっての回答である。
 が、先方は百も承知のうえで、さような場違いの表六玉からの声をも視野の隅に置きつつ、問題点を広く洗い出そうと企てられたのだろう。しかも彼の配下には、大真面目に精進する前途有為の学徒らが多く連なっていることも、日ごろから存じあげている。ここはせいぜい正直たるを期して、お応えせねばなるまい。

 第一問いきなり。あなたにとって「私」とはどんなものですか?
 来ました来ました、来ましたよォ。根本的な問いというやつだ。むろん応える力量など、私にはない。これまたご承知のうえで、不正確でもよろしいから率直な所見を述べてみよとのご意向にちがいない。これは深夜に回す案件だ。
 夏冬とおしてエアコンというものを放棄して、十五年以上になる。猛暑さなかも、換気風通しと昭和の扇風機一台と、日に三回ていどの冷水シャワーにて過している。陽の高いうちに厳密な思索ごとは無理である。ルーティンワークのみにかまけ、あとはボーッとしている。
 台所作業に手を動かしながら、武内陶子さんの「ごごカフェ」や、荻上チキさんと南部広美さんの「セッション」などから、かすかに世間の声の一端を聴き取っては、あれこれ妄想したりしている。

 さて陽もとっぷりと暮れた。「考える」ということを始めてみるか。
 今夜の「ラジオ深夜便」午前一時台は「師匠を語る」シリーズで、大竹まことさんによるトーク上岡龍太郎さんを偲んで」のアンコール放送だという。初回放送を聴いたはずだが、情ないことに内容をほとんど記憶していない。
 ご縁なんぞあるはずもない芸能人がたのなかにも、世代的共有感覚とでも申そうか、おっしゃることが妙に理解できるというかたが稀にある。お役目上さようなおっしゃりようでも、背後のご本心はかようでろうと、伝わってくる気がする。大竹まことさんはそのお一人だ。役者の大杉漣さんも同様だったが、亡くなってしまわれた。

 よし、今宵はこれを聴いてから寝るか。それまでは考え時間だ。食後の洗い物は流しで水に浸けたまま、考え始めた。
 若き日、仕事とはある場合には自己表現で、ある場合には奉仕活動と思っていた。当然ながら、自分を存在物と思っていた。名誉や富裕への野心は乏しいほうだが、女性への憧れや執着は人並にあった。仕事も男女関係も、存在物たる人格の接触もしくは衝突だと思っていた。
 今、どう思っているだろうか。人は存在物か? 怪しい。自分という状態、さらには現象だと感じている。自分をひとかたまりの統一的存在であるかのように思わせている根拠は、唯一「意識」の持続のみであって、物質としての肉体は怪しい。運動力や思索などエネルギーの動きについても、現象ではあっても存在物と称べるかどうか……。
 いつから疑うようになったか。ずいぶん遅かった。五十歳ではまだ、自分を統一的生命体であり、存在物と感じていたような記憶がある。その後、両親の在宅看病・介護に明け暮れしたからか。それとも教員になったからか。たんなる心身の衰えによるのか。判然としない。とにかく今は、存在物としての自分などという考えかたには、なんの面白味も感じられない。


 眼が醒めてみたら、大竹まことさんのトークはとっくに了っていた。ふだんうたた寝はせいぜい十五分から小一時間だのに、二時間半も寝ていたらしい。流しに洗い物は山のようだ。
 情けなく口惜しいので、食器洗いしながら鍋に湯を沸し始めた。こうなれば怠けて一日延しにしていた煮物を、今やってしまうまでである。手持ちのじゃが芋と人参とを消費すべく、さて今回はなにと合せようかと思案して、鶏肉を買ってきたまま、なん日もが経っていたのである。
 鶏肉は表示消費期限を過ぎていた。が、懸念には及ぶまい。肉に塩を振ってから粉をまぶして、強火に熱したフライパンで手早く炒めてしまおう。塩で水が出てしまわぬように、芋と人参の下茹でが済んでから、炒める直前に作業することが肝心だ。
 あとは眼をつぶっていてもできる、いつもの出汁と水加減に、酒と砂糖と醤油の順番だ。とりたてて美味でもあるまいが、自分流の無難な煮物ができる。年寄りはこういうものを食っていれば無難なのだと、さも云いたげなひと鍋ができる。どうにも食欲が湧かぬ酷暑の日には、即席のスープや味噌汁を啜りながら、こんな煮物だけむしゃむしゃ頬張っていさえすれば、生きていられる。

 炊事完了すれば午前四時台はすぐそこだ。「ラジオ深夜便」四時台は、九十歳になられた石原まき子さんへのインタビューだという。石原裕次郎の想い出、石原プロ解散までの経緯、そして現在のご心境とお暮しぶりの噺だろう。興味惹かれぬでもない。
 北原三枝さんがいかに特色強烈な、魅力的女優だったかを、お若いかたに説明するのはむずかしかろう。九十歳との紹介が信じられぬほどに、前後の組立て整然たる回想談だった。つい先ごろまで世間から退いてはおられなかったからだろうか。現世では金婚式を迎えられなかったが、いまも「裕さん」との結婚生活は続行中とのことだった。
 気づいて窓を開ければ、すでに朝だ。今日も暑い日になりそうな気配だ。今度こそ本格的に寝るぞ。