一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

無意味なこだわり



 週二回の、生活ゴミ収集日だ。

 なにかにつけて横着でなりゆき任せを極めこんじゃいるが、ゴミ出しについてだけは、自分なりのこだわりがある。同じひと袋であれば、重い袋を好しとする。同じ重さであれば、小袋を好しとする。つまりゴミの密度を問いたいのだ。
 匂いが出る危険があるものは、小袋にまとめて、圧縮して口を結ぶ。玉子の殻、煙草の吸殻ほか灰皿の中身、納豆を覆っていたフィルムや出汁の小袋、腐りやすい野菜の切り屑などだ。
 動物性の生ゴミは近年めっきり減った。鯵や鰯や秋刀魚を丸ごと買ってきて、自分で頭を落したり腹を裂いたりする機会は減った。干物であれば、頭や小骨やヒレまでこんがり焼いて食っちまうから、目玉と中骨くらいしか残らない。玉子の殻と一緒に小袋ゆきだ。缶詰で代用すれば、それすら残らない。肉についてはもっと極端で、ハム・ソーセージなどの加工肉中心で、骨だの筋だのがゴミ化する機会はほぼ皆無だ。

 分別に回せぬ紙類・布類・ビニール類は細く折るなり裂くなり紐状にしてから結ぶ。箱状に折れ曲ったものは、鋏を入れて細かく平らにしてやる。弾性による反発力を奪ってやり、容積を取除いてやると、積り積ってゴミの密度が高まり、嵩が格段に小さくなる。私勝手に「テトリス現象」と称んでいるが、ゴミがゴミ同士の隙間に沈んで行ってくれるのだ。
 老人独り暮し二週間や三週間ていどでは、台所に設置した四十五リットルの袋の底に、ゴミはいくらも溜らない。居間へ持帰って、処分所類だ不要レシートだ使用済みティッシュだのといった紙屑類に、掃除機が吸ってくれた埃を空けて、ようやく袋に半分ほどのゴミとなる。
 玄関を出る。草むしりのさいに仕分けておいた、出土ガラクタ類を足す。これで袋は三分の二ほどになる。積み枯らした草山のうちで、地に還してもさほど役立つまいと思える部分をひと抱えふた抱え掴みだして圧縮し、パッキンのように袋に詰める。どうやら納得のゆくゴミ袋となる。持上げてみると、濡れもの湿りものはなにひとつ入ってないのに、ずっしりと重い。

 私のゴミはふいの突風が吹き来たところで、転がり動いたりはしない。口に出して人さまに申したことはないが、密かな誇りである。自己満足の極みだ。
 強風の日があるたびに、お向うの共同住宅の住人がたによる共同ゴミ出し場から、いくつかのゴミ袋が往来へ転がり出る。風向きによっては拙宅敷地内へと転がり込んでくる。ゴミ用の袋もあるが、レジ袋で代用したものもある。他家のゴミを検分する趣味は持合せないが、手に執ってみると内部はスカスカで軽い。発泡スチロールと透明樹脂とを分別もしてない弁当殻が、水洗いもされず異臭を放っていたりする。割箸や樹脂スプーンやフォークまで混じる。
 お返ししてもまた転がり出るだろうから、拙宅のゴミ袋に結え付けるなりなんなりして、拙宅追加分の体裁にしておく。ベテランの収集作業員さんは、オカシイナ、この家はこういうゴミを出さぬ家なんだがと、不思議に思われたかもしれない。いや、玄人のお眼には、事情は手に執るように想像できてしまうことだろう。
 私が家事担当となった時分にはすでに起きていたことだから、少なくとも二十五年来の町内事情である。その間に、ウチのゴミ袋がお邪魔してしまって、なんともはや……といったご挨拶に接したことは、一度もない。


 在日や観光の外国人さんが、日本の街は清潔だ、日本人は行儀良くルールをよく遵守すると云ってくださる動画を、しばしば眼にする。生真面目に過ぎて少々堅苦しいといったご感想もある。日本人は猫を被って、本心を隠しているとのご意見まである。訪問先で出した自分のゴミを持ち帰って、みずから処分するのは日本人の勝手だが、街なかに設置されたゴミ箱がほとんど視当らないのは、いくらなんでも行き過ぎだろうとのご批判もあるようだ。
 申しあげます。一朝一夕にしてかようなことにと、あいなったわけではございません。
 かつて住宅街では往来に面して、各ご家庭ごとにゴミ箱があった。都市の巨大化と生活の富裕化とによりゴミの量が増え内訳も多様化し、とくに交通量の爆発的な激化に見舞われ、より安全かつ合理的な方式を目指していく度もいく度も改良を加えては反省を迫られ、それらの繰返しの果てに現今の仕組みや姿がある。為政者の強権によったのでも、運動家の旗振りによったのでもない。無数の日本人たちの美意識の集積により、徐々に形成されてきたにほかならない。
 猫を被り体裁を飾っているわけではないのだ。信仰心の問題であり、美意識の問題であり、ひっくるめて申せば文化の問題である。

 たかがゴミ袋になんと大仰な、とおっしゃる向きには、日本の芸術論も文学論もご無理だ。だれも視ていなくたって、オテント様が視てござる。これは仏教伝来よりも遥か以前からの、日本の土着信仰である。この信仰が土台としてあったがゆえに、仏法も儒学も日本流に開花することができた。神仏の前へと進み出るさいには手と口とを清めなさい、心を入換えて人生再出発するさいには禊(みそぎ)をなさいというのは、土着の美意識である。大晦日にいったん終焉した生命が新年ととともに再出発するのも、同じ道理だ。
 長所ばかりか短所もあったことは瞭らかだが、この美意識ゆえに歴史上いく度かの壊滅的危機を、ともかくも切り抜けてこられたのも事実だ。さような文化はすでに時代遅れで、信奉するに足りぬとされる向きは、たとえ国籍がどうあれ血筋がどうあれ、異なる文化のもとの人びとだ。逆にお袋の味がパエリアだろうがタコスだろうが、カリーだろうがキムチだろうが、この信仰心・美意識が共有できれば、同じ文化のもとに生きる人びとだ。
 拙宅のお向うの共同住宅には、ほんのなん世帯かの、異なる文化のかたが住んでおいでだ。

 しかしながら文化なんぞというものは、さなかにあってはなにがなんだか掴み処もなく、結果からしか見えてこないのも事実だ。見えてくるまでは、せいぜい無邪気にもてあそび、いじくり回しておけばよろしいもんでもありそうだ。
 昭和時代のゴミ箱を、愉しみながら愛玩なされたらよろしい。組立てキットが AMAZON で販売されている。