一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

道普請

 昨日の轍を踏まず。

 起床後のルーティンを了えたら、ただちに浴室へ直行。冷水をたっぷり浴びて、作業モードに。十時半には位置に就いた。
 今日の作業場は、玄関番のネズミモチの根元周辺。建屋東側のブロック塀との間だ。裏手へ回る細い通路の入口である。裏手にはガスメーターが設置されていて、担当さんが毎月検針に見える。安全靴というほどではないが、スニーカーと称ぶにはあまりに丈夫そうな靴を履いておられるが、それでも草茫々たる通路では難儀される。他所に先がけてこの通路だけは、歩行可能な状態を確保しておかねばならない。

 通路のおおかたは春秋の草むしりを欠かさずに維持してきた。問題はその入口箇所で、片側はネズミモチ徒長枝が伸びるたびに剪定してきたが、もう片方の塀ぎわには、昔の植木棚の残骸が一部放置されたままで、通路を狭くしていた。
 残骸の量はいくらもない。有毒物が発生するでもない。ものぐさから、後回しにし続けてきたのだった。で、今日こそは草むしりを兼ねて、残骸撤去による通路拡幅に着手したわけだ。

 残骸撤去といっても、まず残骸を分類せねばならない。差し渡してあった朽ち板はまだ役に立つから、塀ぎわに立掛けておく。ちょいとした重しになったり、最後の最後には地中に埋めるものの形を定める材となり、みずからも地中のものとなる。
 脚となっていたブロックは、建屋寄りの新たな所定場所に積み足す。鉢類は割れ鉢、形を留めた素焼鉢、プラ鉢とに三分類し、それぞれの寄せ山に運ぶ。山が大きくなったら、袋詰めして、「キケン 割鉢」「不燃 プラ鉢」のステッカーを貼って、不燃ゴミの朝に出す。

 迷うのは原型を維持している素焼鉢や塗鉢だ。プラ鉢ならば、原形を留めている振りをしていても経年劣化しているから、すぐに砕ける。使い物にはならない。そこへゆくと、陶磁の鉢は息が長い。無差別にすべてをゴミ扱いしてしまうのは、なんだか気が引けるのだ。蘭鉢や万年青(おもと)鉢、寄植え盆栽用の平鉢、豆盆栽用の小鉢・角鉢など、培養鉢であると同時に観賞鉢でもあるものと、月並な素焼鉢とを、同列に処分してよろしいものなのだろうか。
 さらにはその月並な素焼鉢にしたところで、世間のどこかには、今も広いお庭か圃場をお持ちのかたでもあって、挿し芽や挿し木による増殖を愉しまれ、道端の野草や山採りの原種を鉢上げして悦びとしておられないだろうか。つまり消耗品としての土鉢ならいくらでも活用できると、おっしゃるかたはおられないだろうか。
 まさかそのようなことが、との想いも湧く。昭和の終りころ、空前の園芸ブームがあった。素焼鉢なんぞは生産過剰だったろう。現在となっては、やり場に困り捨て時を迷うお宅が多いのかもしれない。形も大きさも多様な鉢の山を眼にして抱く私の迷いなんぞは、貧乏性からくる感傷に過ぎまい。とは思うものの、姿完全の植木鉢類については、邪魔にならぬ場所に積上げたままにしてある。


 昨日草むしりしたあたりは、コオロギの集団棲息地だった。コオロギには済まないことをした。懸念したとおり、昨夜、啼声はめっきり減った。それでも二匹三匹かは啼いた。別の箇所で啼いていた。それが、今日草むしりしたあたりである。逃げまどう一匹を今日も視かけた。コオロギにしてみれば、突如として降って湧いた、環境破壊の暴虐たる嵐に相違あるまい。うまいこと住替えて、新天地で命をまっとうしてほしいもんだが。

 当方にも当方なりの事情がある。この通路は拡幅しなければならぬのだ。拙宅前の一方通行路を、どうあっても拡幅せねばならぬと、東京都が云っているようなものだ。作業は予定どおり、午前十一時に了えた。