一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

野生化



 もとをただせば、れっきとした……

 先祖がいつ拙宅にやって来たのだったか、記憶にない。三十年は経っている。玄関から門扉までのほんのわずかな通路の両側に、つまり建屋沿いとブロック塀沿いとに、丈三十センチほどの緑葉を茂らせている。
 当初は高級めかして取り澄ましたものだった。径二十センチ高さ三十センチほとでやや下すぼまりの、藍色釉のかかった飾り鉢に納まっていた。姿も花色も豪華といえば豪華、大味といえば大味で、父好みでも母好みでもなかった。いただき物だったろう。そのころ贈答用園芸植物として流行していた君子蘭である。正しくは君子蘭だった。

 開花直前の状態でいただいたわけだから、その年は見事に咲いた。翌年以降も咲かせたければ手入れが必要だった。大鉢を室内に置ける部屋など拙宅にはないから、物干し場に置かれ、冬は洗濯場の窓際に置かれた。
 地下茎のような球根のようなバルブから茎が立つのだが、親芋の周囲に子芋がへばり着くかのように、巨大化したバルブの周囲に小型バルブが次つぎ生じた。根の量が増え、株が巨きくなっていったのである。
 掘り上げ、不良な根を切り除き、バルブ群を二分してふた鉢に植え分けた。当時さような芸当ができたのは、母しかいない。なん年かが経って母の病が重くなり、階上の物干し場への昇り降りが苦しくなってきたので、ふた鉢ともを玄関近くの土の上に降した。寒さにやられて枯れようが姿を消そうが、それも植物自身の宿命であり運であると、覚悟を決めたのだった。薄情のようだが、しかたなかった。
 ふた鉢とも枯れずに、二年ほどは申しわけていどの貧しい花を見せ、やがて花を見せなくなった。ひと鉢にはひびが入り、やがて欠け、根が溢れた。もうひと鉢は鉢底の穴からわずかの根を地中に伸ばし、生き永らえているようだった。鉢を移動することも容易ではなくなった。

 母の歿後なん年も、そのままにしてあった。母の看病が終了しても、父の在宅介護が深刻局面に入っていた私にとっては、後廻しにすべき問題だった。独り住いになってからも、割れ鉢と頑固鉢のコンビは視慣れた風景となって、そのまま手着かずに放置してあった。
 定年退職して、ガラクタの片づけや草むしりが仕事のうちとなったあるとき、ようやく大鉢と割れ鉢とに眼が行った。根が頑固にへばり着いた鉢から、刃物を使って株を剥がし抜くと、鉢内にもはや用土などほとんどなく、生きた根が少々とあとは根の残骸で充満していた。生きた根とバルブとのバランスを看ながら、六分割に株分けし、ブロック塀ぎわと建屋ぎわに地植えした。今回もまた、枯れようが姿を消そうが自身の宿命と、突き放すしかなかった。水だけは切らさずに与えたけれども。


 おそらくは天然自然の地面など知らずに半生を過してきた株たちだ。玄人の手で圃場にて産まれ、考え抜かれた最良の培養土で花を咲かせ、盛りを過ぎたら命からがらの長い年月を強いられた果てに、初めて瓦礫の多い粗悪な土に地植えされたのだ。しかも周囲には、ドクダミやシダ類が押しくらまんじゅうさながらに、遠慮なく詰め寄ってくる。
 先祖返りと称ぶべきか野生化と称ぶべきか、丈は矮性化した。葉の形も厚みも色も、まったく変った。今の姿を君子蘭と称んだら、人から嗤われるにちがいない。むろん花芽など挙げて来はしない。身を保たせるのに精一杯である。

 しかしと、ここでまた思う。人間好みに品種改良され、培養され成長調節されて大きな花を着け、時期が過ぎたら忘れられ処分される生涯と、生命存亡を賭けた逆境を経たあげくに、さらばえ尽して名も視分けがたい姿となり果てて、他の草ぐさと共にある今とでは、植物としての彼にとってはいずれが幸せなのであろうか。にわかには断じがたい。
 ここ数年のわが実践の成果か、ドクダミとシダ類の跋扈はかつてほどではない。その代りに、いち早く芽吹き、花を咲かせて、先に消えてゆく早春の草ぐさが、別人の様相となったかつてのスタープレイヤーに絡みついている。