一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

コオロギの里



 今日の草むしりは玄関右脇方向、西に隣接するコインパーキングとの境界塀ぎわである。

 三十六度まで上昇すると聴いた。陽射し衰えたとはいえ、衰弱気味のわが体調には危険信号だ。気温急上昇する前の午前中に片づけてしまわねばならない。
 起きると目覚し時計は十時を指していた。ということは午前四時ごろ就寝したらしい。短針の対極方向すなわち六時間後にセットすることにしている。面倒がないからだ。昨夜何時に寝たんだっけと、思い出す手間が省ける。
 数値測定と洗面を済ませて、パソコンを開く。よしゃあいいのに「脳トレクイズ」をクリックしてしまった。「左右のイラストから違うところを三つ見つけてください。問題は三問、制限時間は各九十秒です」というやつだ。私のごときキャリア向けに「上級編」というのもあって、なかなか手ごわい。全問正解に至らぬことに承服しかね、ついつい深はまりする。
 作業開始は正午となってしまった。

 まずこの方面に積上げてある枯葉枯枝ふた山を、始末するなりひとまとめにするなり、もしくは移動するなりが必要だ。枯山の上に生草を積重ねるわけにはゆかない。倉庫や冷蔵庫の「先入れ先出し法」と同様だ。
 一計を案じて、除草直後の地表乾燥が懸念される場所に敷き詰めてしまうことにした。蔓草類が絡みあって、こんがらがった網の玉のようになっているのを、なかばほぐして細長く伸ばして、積上げブロックの前に敷いた。穴を掘って埋めこんだほうがよろしいに決っているが、そうなると今日の作業予定時間には収まらない。鋤き返しは後日のことだ。なにせおよそ二時間後には三十六度である。
 枯草の絡みはしぶといから、風に飛散する気遣いはないものの、重しを兼ねて朽ち板を載せておく。これでふた山のうちの片方が処理できた。

 さて草むしりはつねのごとく、手早くかつ粗雑であることを旨とする。丹念な仕事には眼に見えぬ多くの時間が必要となる。
 文章と同じだ。主題だの筋立てだの思想だのというものは、経験を積んだ者であればあっという間に拵えてしまう。そつなく漏れなく仕上げるための細部の磨きにこそ、圧倒的な手間も時間もがかかる。専門職ではあるまいし、老人の草むしりなんぞが、完璧であってなるものか。
 庭師の親方が小僧さんを仕込むのに、いきなり鋏を持たせたり、ましてや梯子に登らせたりするはずあるまい。まずは草引き(草むしり)をみっちり仕込む。そういう修業を経てきているから、専門職人さんの草むしりには敬意を払らわねばならぬのだ。素養もなき老人ふぜいが外見だけ真似してなんぞ、よろしいはずがない。

 正味十五分ほどの草むしりのあいだに、五匹も六匹ものコオロギが、突如の大災害に驚天動地の想いに襲われたか、方向を視失ったかのように逃げまどい、やがてまだ引抜かれずにある草叢のかたへと走っていった。鈍感な眼にさえ五匹六匹も目撃できたということは、相当数がこの一帯に棲息もしくは休息していたのだろう。
 このところ拙宅周辺では、蝉の啼声は峠を越えた感があるが、夜更けともなればコオロギの大合唱である。盛んな啼声の交歓に、たいした精力だと感心しきりだったのだが、連中はこのあたりにコロニーを形成していたのだったか。
 済まないことをした気になった。今夜から啼声は遠ざかることとなろう。

 この方面の草をむしると、かつて積年の大苦戦を強いられた最大ネズミモチの切株が姿を顕す。伐り倒してからも、次から次へとひこばえを出してきて往生したもんだ。
 大作戦を敢行した。根方にスコップを入れ、兵站補給線を探ったところ、三方面に四本の太根を伸ばしていることが判明した。二番目の太根は塀に沿っていて作業しにくかったため、ノコギリを入れてかろうじて遮断だけした。一番の太根は東(手前)向きだったので、スコップを深く入れて姿を露わにし、一メートル余を切取った。巨きな穴ができた。メロンの皮や正月玉飾りの橙や、枯枝枯草類をぎゅうぎゅう詰めにして土をかけ、マウンド状に盛上ったところにブロックをひとつ置いた。それでは重味がたりぬようだったので、漬物石をひとつ載せておいた。ペットの墓かなにかのようになった。
 好い按配にそれ以後切株は、ひこばえを芽吹かなくなった。

 それが一年前か、さらにその半年前だったろうか。今では、ブロックが半分地中に身を沈めている。生ゴミや枯枝枯草類がほぼ土に還って、嵩を減らしたものだろう。一度地中のもようを確かめてから、新たに枯草類を盛り足してやらねばならない。このまま窪地になってしまっては、かえって面倒だ。
 思い立ったがナントヤラで、今やってしまえばよろしいのだが、時刻は十二時半である。この陽気にあっては、作業を三十分で切上げるのが、老人が生き残る方途と思い定める。
 ともかく、今宵も啼声を聴かせてくれるコオロギがもしあれば、よくよく私と相性のよろしいコオロギである。