一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

潮目の気配


 新左翼に疲れていた若者たちが、あったのかと思う。

 一九七〇年の安保改定に向けて、六〇年代後半は若者たちの政治行動が盛んだった。六八年の春には東大入試が実施されなかった。前年の安田講堂立てこもり闘争の後片づけが済まず、いまだ荒廃治まらぬ情勢だったからだ。
 新左翼の各セクトは、路線対立による分裂様相をますます深めていた。日本共産党に対する批判や他セクトに対する批判が先鋭化するなかで、主敵であったはずの国家権力批判については、定型符丁化し紋切型になってゆくかに見えた。言葉のみが過激に積みあがり、行動の面では極端化・跳上り化して、多くの社会人の実感から遠ざかる傾向にあった。
 が、その現象を滑稽だの漫画的だの、ゲーム化しただのと揶揄する気にはなれない。あまりに真剣だった同世代をいく人も記憶している。今なお複数の罪状で指名手配中のままになっている同世代を、いく人も記憶している。この半世紀間、再会もしていないし、どこかで擦違ってもいないものの、どこでどう暮らしているのだろうかと時おり思い出すことはある。

 この道は先細りだ、行止まりだと、薄うす感じている者は多かったろう。ならばいかにすべきかが判らなかったに違いない。また内心疑いながらも自分を騙し、いっそう奮い立たせていた者もあったことだろう。
 そんななかで、潮目が変った。「革命」「弾劾」「粉砕」などの標語はまだ飛び交ってはいたけれども、「情念」「土着」といった標語が見え始めた。別方向から「漂流」「デラシネ」といった標語も見え始めた。じつは表裏一体で、一様に「革命」に疲れてきていたのだったろう。

 柳田国男折口信夫が再読され、南方熊楠に光が当り、稲垣足穂が再評価された。新劇青年たちも、唐十郎寺山修司に眼を瞠った。末端では、東映仁侠映画にっかつロマンポルノが満席になった。別方向では、ヒッピー・ムーブメントに呼応して行動を起す若者もあった。そういう風向きのなかで、松永伍一も村上一郎も若者の眼にはたいそう魅力的だった。
 松永伍一は詩と評論とをとおして、もの云わぬ民衆の心根の奥底を探ろうと、地中を掘り進めていった人だ。著書は多いが、ベストセラーの人気作家という人ではなかった。初期の仕事に『日本農民詩史』全五巻があることが巨きく、また重い。
 画廊でご挨拶させていただく機会があった。素朴な笑顔で若僧にも分けへだてなく、独特な九州抑揚で話しかけてくださるかただった。その後あちこちで数回、お姿に接したが、いつも変らなかった。

 村上一郎は日本浪漫派の末裔とされた。三島由紀夫とならんで二・二六事件の擁護派論客として知られたが、擁護のていどや深さという点では、三島以上だったろう。
 吉本隆明を読んでも、桶谷秀昭を読んでも、数珠つながりに登場してしまう名前だが、私はついに好い読者にはなれなかった。もっとユーモラスに、楽に、いい加減に文学したい私にとっては、厳格に過ぎる論客だった。
 いずれも心惹かれた人ではあるが、松永伍一と村上一郎を、古書肆に出す。


 稲葉真弓の短篇『声の娼婦』に、たいそう感心したことがあった。眼に見えぬはずのものをどう見せるか。実際に眼にする以上に蠱惑的に、エロチックに見せるには。
 たししたセンスの作家だと感じた。だがその後、私は好い読者だったとは云えない。描きかたのセンスに感心はしたものの、描かれた事実のほうはどうなのだ、という先入見から逃れ切れずにいたのだと思う。

 後年、大学の教員としてご一緒した。稲葉さんが教授で、私が非常勤講師。例により私のほうが古株であっも、身分は正社員と派遣社員の関係である。
 稲葉ゼミの卒業作品審査を、副査としてお手伝いした年もあった。作品通読のうえ口頭試問に同席してみたら、無難に描く女子の学生が多かった。面接態度もおしなべて行儀好く、なるほど著名小説家の元へはかような学生が集るのか、私の周囲の学生たちとは毛色が異なるわいと、痛感させられたものだ。
 一人だけ、描写において達者なのではなく、たとえ拙く描いても言葉にイメージ喚起力が備わった、天性の言葉感覚の持主がいた。指導教授の詩人的才能の方面を継ぐ学生かと見えた。そのころの稲葉作品は、存在や行動を描くというよりは、読者に気配を感じとらせる作風に磨きがかかっていたと思われる。

 稲葉さんははすでに病を抱えられ、晩年にあたる時期に入ってもいたので、副査を機に長くお付合いに及ぶという年月はなかった。
 深きご縁ではなかったが、興味深い小説家だった。稲葉真弓を古書肆に出す。