一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

女性作家たち

 作風と個性、ともに印象強烈が女性作家たち。じつのところ、私なんぞに理解できるのだろうか?

 笙野頼子さんがデビューなさったころ、私は地方新聞に読書案内の連載コラムをもっていた。無愛想でゴツゴツした手触りの、重みのある新人が登場したと感じ、採りあげた。藤枝静男の文章から感化を受けた文体との触込みだった。なるほどさようでもあろうが、こういう文章の先祖へと遡るとなれば、瀧井孝作の文章になるよというようなことを、たしか書いた。いずれにもせよ、面白く読みましたよ、とも。
 通信社からブロック紙といくつかの県紙とに配信される、しかも文化面か婦人・家庭面の隅っこに掲載されるちっぽけな囲み記事だから、今まさにねじり鉢巻で階段を登ろうとする作家の眼になど、とまるはずがあるまい。しかしまた新人なればこそ、いかに小さくとも眼に見える具体的反応から、元気を得られることもあるかもしれない。
 ほんのご挨拶代りに、また業界人の仁義として、掲載紙の切抜きをお送りした。ご丁寧にも、返信ハガキを頂戴した。これからもひたすら信念と幻想とに忠実に書いて行きたいと念じますと、後年の笙野さんを予感させる志が述べられてあった。

 軽薄短小、スリムでスマート、お洒落にして口当りと喉越しがよろしい文化がとかく優先される風潮にあって、対蹠的方向へと歩み出した笙野文学は、玄人筋の反響が好かった。営業的にもあるていどは当ったのだろう。当然ながら風当りも強く、批判的論者の声も高かった。喉越しのよろしい当節文化にとってこんなもんはとの、いわれなき反感である。
 笙野さんがまた、売られた喧嘩は買うほうらしく、純文学(芸術)擁護の立場から、豪快な反論に討って出た。あって好い論争ではあった。
 だが売り言葉に買い言葉が昂じて、その後の表現にあらぬ力瘤が入ってしまい、ともすると極端化してしまったかもしれない。論争の置土産としてしばしばあることだ。

 藤枝静男を敬愛するといっても、若き日の私小説類よりも、後期の『空気頭』『田紳有楽』など幻想を大胆に摂りこんで、新しい「私」を力まかせに形成させてしまう、いわゆる「超私小説」に、笙野さんはより一層の興味がおありらしい。素晴しいことだ。
 カギカッコ付き「近代小説」の最終局面が見えてきたと感じる作家は少なくあるまい。では次なる表現技法はと、当然考えるにちがいない。幻想中にいかに自分を発見するか、また強引に自分を設定するかにかんして、技法実験を試みるのも大切だろう。芸術志向作品だろうが、娯楽志向作品だろうが、ことは一緒である。いや、ほんらい区別するほうがおかしい。
 ただし急いてはならぬし、慌ててもならぬ。慌てれば、力づくでガラクタを製造してしまうことにもなりかねない。どのあたりからだろうか、私には笙野さんの作品が、たいそう難解なものになった。「ひたすら信念と幻想とに忠実」な姿に従いてゆけなくなってしまったのだ。
 むろんご本人にあっては、持続された努力の末になった果実にちがいない。つまり私が理解力を喪ってしまったのである。やむなく古書肆に出す。

 あるとき、ひな壇に並ぶ若者たちと有識者とが質疑応答するテレビ番組に、柳美里さんがゲスト出演されていた。お定まりの青春苦悩談義だ。若者の一人から素朴な質問が投げかけられた。
 「なぜ、人を殺しちゃいけないのですか?」
 ふいを衝かれて応えに窮し、息を呑み、うろたえた表情すら隠せぬ柳美里さんを、テレビカメラは大映しにした。さしたる興味も目的もなく、私は偶然その番組を観ていた。たしかに応えにくい質問ではあるものの、柳さんの動揺はあまりにあからさまで、正直過ぎると私には見えた。
 しかし柳さんはそれ以来、今さら考えてみる機会すらなさそうなこの素朴な問いに、まことに誠実に正対していったようにお見受けする。お仕事は深まっていると思われる。が、できるだけ多くを忘れて、なるべく軽く生きたい現在の私が従いてゆけるものだろうか。拙宅内に散らばってしまったお作を捜すことすら今はできず、眼に着くものだけを古書肆に出す。

 楊逸(ヤン・イー)さんは、私が非常勤講師として勤務していた大学の教授であられる。年齢もそこでの教歴も私のほうが古かったが、あちらがご上司で私が部下、あるいは正社員と派遣社員の関係だ。いや本社社員と下請け職人の関係だ。いやそれより格段に隔たった立場である。
 楽屋(講師控室)でしばしばご一緒させていただいたが、教員同士ゆえ教室にて学生たちをいかにご指導なさっておられるかについては、存じあげない。いきおい学生間での評判に聴き耳を立てるほかないが、たいへん丁寧にご指導なさる教授だそうだ。
 国境を跨いだ家族親族問題や、母語と異なる言語習得問題や、あまつさえ習得言語による文学表現など、私なんぞには想像もつかぬ苦労をしてこられた作家だ。興味をもって拝読したが、母国語でしか生きたことのない私には、しょせんは理解及ぶべくもない文学である。古書肆に出す。