一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

学力不足


 大学卒業後、ついに再読もしくは通読の機会がおとづれなかった本も多い。

 『ボードレール全集』全四巻(人文書院、1963 - 64)は、入学してほどなく、ということは一九六九年かそれとも七〇年か、貧しいポケットを叩いて、思い切って買った記憶がある。小林秀雄を読み始めていたころだから、影響だったろうか。編集委員福永武彦の名を視て、へぇ、小説を書くばっかりじゃねえんだ、なんぞと思った。その程度の知識水準だったのである。デモだ学生集会だと、いたづらに騒がしい時期だった。
 どなたもさようだろうが、まず『悪の華』『パリの憂鬱』に眼を走らせた。感じられなかった。文芸批評をいくつか読んでみた。面白くなかった。小林秀雄はなにを力んでいたのだろうかと思った。
 美術批評を読むに及んで、自分自身の途方もない学力不足に気づいた。外国語が読めないという問題ではない。眼の前の作品が、翻訳とはいえ現代と異なる情勢下に書かれた近代古典だとして、現代との隔たりや相違を承知して、つまり距離感の想像力を駆使して読む力が備わっていなかったのだ。基本的学力の欠如である。

 これらを興味深く感じられる日が、いつかやって来るのだろうかとも思い、二列横隊のわが書架の奥の列にひっそり並んだまま、半世紀が経った。そんな日は来なかった。
 今読返せば、解らぬなりに興味を惹かれる部分も多々あることだろう。が、その理解は私にとっての娯楽ではなさそうだ。勉学の読書はもうご免だ。娯楽としての読書が望ましい。
 難解か平易かは関係ない。『萬葉集』のごく一部分も、荻生徂徠のごく一部分も娯楽だし、『徒然草』『平家物語』など全篇娯楽である。

 今では別版元から、新しい『ボードレール全集』が刊行されてある。要所を摘出した文庫本・普及本なんぞも、きっとあることだろう。己の無学ゆえに、ついに出逢うに至れなかったボードレールを、古書肆に出す。
 なんの血迷いか、フランス語版小冊子が二冊出てきた。『悪の華』『パリの憂鬱』だ。抄本が語学授業の教科書として採用されたのでもあったろうか。記憶にない。併せて古書肆に出す。

 近辺に並んでいたフランス文学の古典類も、今後再読する機会はおとづれまい。
 ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は、読み始めてはみたものの、あまりの野放図さに呆れて、途中で投出した記憶がある。
 ロマン・ロランを読む柄ではないと自覚してはいたが、フランス革命への一時的興味から、小説は措いて、いわゆる「革命劇」の戯曲だけを読んだ。上演された舞台ほどには面白くなかった。
 サルトルの著作をむやみに集める世代に属してはいた。が、哲学書も哲学的長篇小説も理解を諦め、五十歳代の終りころだったろうか、ほとんどを古書肆に出した。ただし戯曲類だけは残した。舞台化する劇団もたまにはあったから、再読の機会もありえたのである。が、劇場へ赴くこともなくなって、はやいく年にもなる。このさい残っていたサルトルも、古書肆に出す。

 フランソワ・モーリアックを面白がって読んだ時期があった。息子クロードではない。ご多分に漏れず入口は『テレーズ・デスケルウ』だ。いずれも信仰に裏打ちされた上品な恋愛小説として読んだ。物音の大きい現代小説に疲れていたのだろうか。かような小説をゆったり読む晩年も悪くないと夢想したものだったが、そんな人生とはならなかった。
 今では新訳も文庫本・普及本も完備されてあるのだろうが、もし再読したい想いが湧いたところで、私は旧訳でけっこうだ。『テレーズ・デスケルウ』『愛の砂漠』二篇を残し、他を古書肆に出す。