一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

痕跡



 はなはだお見苦しいものを、お眼にかけます。お食事中のおかたは、どうか他へお移りくださいますよう。

 右上腕、ほとんど肩というあたりに、一円玉ほどのうっすらとしたケロイドがある。母から聴かされたところによれば、生後初の種痘を受けたさいに、痕をしきりと痒がって、いくら制しても引掻いてやまず、ついに皮膚が破れてひどく化膿し、長くてこずったという。幼少期には、かすかに盛上って表面がつるつるした、目立つケロイドだった。
 小学校中学年の頃からか、健康診断やプール授業のさいなどに、なんでボクの注射痕だけミンナと違うんだろうとの疑問が湧いた。恥かしかったのかもしれないが、さほど記憶にないところをみると、たいした羞恥感でもなかったのだろう。
 思春期ともなると羞恥感など皆無で、部活のロッカー前ではチームメイトに見せびらかすほどだった。とはいえ異様にして醜いにはちがいなく、肌脱ぎするさいにはそれとなく指先で触れてみるのが、なかば癖となっていた。
 齢を重ねるにつれ、意識にのぼる機会もなくなり、ふだんは思い出すこともなく過してきた。今では、あの痕はどこだったっけかと、指先で探すほどだ。盛上りもなく、よほど指先に意識を集中させなければ、周辺との肌触りの差にも気づけない。オカシイナ、五十代くらいまでは、はっきりあったはずなんだがと、逆に寂しいような懐かしいような想いすら湧く。

 右側頭部から後頭部への曲り角あたりに、幅三ミリ長さ十五ミリほどの横長のハゲがある。縫合痕が化膿してできたハゲだ。
 中学三年夏休みの横須賀市追浜合宿は、大会を控えての大事な仕上げ練習だった。六年一貫校だったから、高校生の先輩がたを練習相手に充実した実戦的練習ができるはずだった。ある日のこと、「格闘技」と称されることもあるゴール下でのボール奪い合いで、先輩の歯が私の頭に当り、出血事故となった。切れたという感じではなく、衝撃で皮膚とその奥の組織が裂けた、または割れたという感じだった。素人処置では手に負えぬほどの出血で、市民病院へ担ぎ込まれた。
 縫合してもらった。ところがあいにく場所が悪い。上下にも左右にも湾曲した頭の曲り角である。傷口の抑えが利かない。絆創膏も包帯も、すぐにずれて外れる。現場のドクターはしかたなく、一計を案じられたのだろう。ガーゼを傷口に縫い付けるように縫合したのである。
 そうとは知らぬ私は、合宿所へ戻って、ずれてくる包帯を直しながらも、その下のガーゼだけはずれないな、それどころかガーゼ交換しようとしても、肌が引っぱられるだけで外れないな、なんぞと暢気にしていたのだった。

 大切な大会前ゆえ、単独帰京させられることなく、練習中は見学しミーティングには参加して、五日後にチームメイトらとともに合宿を打ち上げて帰宅した。すぐにこちらで診てもらった。
 「なるほどォ、こういうことをすることも、あるのかァ」
 ドクターは笑っていた。縫合後はガーゼ交換もせずに、体育館と合宿所とを往復していたのだ。痕は十分に化膿していた。それが体質というものなのだろう、抜糸後の縫合痕は上腕の種痘痕と同じく、かすかに盛上ってつるつるし、頭髪は生えてこなかった。ケロイド状のハゲとなったわけだ。
 恥かしいことでもないから、社会人暮しにあっても平気で、暑い季節にはスポーツ刈りというような短髪にした。種痘痕と同様に、時おり指先で触れてみる癖もついた。

 ところがである。これまた種痘痕同様に、近年ハゲが目立たなくなってしまった。痕跡を指先で探れば、かろうじて確認はできる。が、もはや一人前のハゲとは、とうてい云えない。
 思うに、ケロイドも張合いをなくしたのではないだろうか。ふだんの暮しにあって、たまに指先で触れられ、回想されたりしているうちはまだしもだったが、思い出されもせず、人目に触れることもなしに、なん年もうち忘れられてあるうちに、ハゲの存在理由を喪ってしまったのではなかろうか。
 

 お若いかたには、ともすると通じにくいかもしれない。じつはわが年代にとって、「ケロイド」とは重い言葉であって、決して茶化したふうに用いてはならぬ言葉のひとつだ。戦災で、大災厄で、大事故で、生命と引換えに傷を負った日本人が、無数にあった。そのことを承知で、今これを書いている。
 私はと申せば、なんのことはない、他愛ない微小ケロイドが生涯にたったふたつ。それも本体の老化に先がけて、ケロイドのほうがおとなしくなってしまった。
 今日は、玉子焼きが、まあまあマシに焼けた。そんなことで気を好くしている。