一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

感覚のごちそう



 矢代幸雄の著書を処分したいのだが、あまりに想い出が多く、処分しきれない。

 手許にあったところで明らかに宝の持ち腐れの専門研究は、手放すに容易だ。『西洋美術史講話 古代編』『東洋美術論考』『受胎告知』などである。しかるべきかたのお手許にあれば、かならずや価値を発揮する。
 また雑誌に発表された美術論やエッセイ類がまとめられたものについては、それぞれにうしろ髪引かれる気は起きるものの、私なんぞが細部まで知らなくてもいい。収斂する核心部分だけを残すこととする。愉しい読物として、また啓蒙書・入門書として書かれてあるものも、同様だ。
 なかには珍しいものも混じる。しかし残念ながら私には、本を美しいままに保管するという心がけが皆無だった。経年相応の陽焼けや傷みを避けられない。もし美本であったら、古書肆のご主人もさぞやご商売の甲斐もおありだったろうに、残念な本が続く。

 さて矢代幸雄を、門外漢の眼から、いかに総括したらよかろうか。大和文華館の収蔵物蒐集に尽力し、初代館長に就任した人。大富豪原三溪をパトロンに横浜三溪園を構想デザインした人。ヨーロッパで美術品の買付けをする松方幸次郎に同行して、印象派やようやく評価され始めたばかりのポスト印象派を買っておくように勧めた人。それらの作品がのちに松方コレクションの中核となり、今日の上野西洋美術館の重要部分となった人。いずれも実践面での功績の例だ。
 専門の美術史研究の面は私なんぞには解るはずもないとして、その成果を啓蒙的に展開した文筆の面では、どういうことになるのだろうか。

 近代化と美術だの、王朝転換や民族支配と美術だの、宗教観の変化と美術だのと、外部要因と美意識の変容とを関連づけて、だれしも美意識の核心を考察しがちだ。むろん美術史であるからには、矢代論考にもさような側面はあるけれども、同時に古今東西人間に共通する、美を悦ぶ心を観逃すまいとしたのが矢代ワールドだと、私は考えている。
 エッセイのなかでは、推奨する作品がしばしば「感覚のごちそう」と称される。ずいぶん子どもじみた表現とも読まれかねないが、あんがい重要な指摘だと考える。辛くて厳しい(?)美術史が横行する時代にあっては、あまりに牧歌的で暢気な美意識と一蹴されてしまうかもしれない。だがこれが基本なのではないかという気が、私にはどうしてもする。
 これらの美術論集を、古書肆に出す。

 矢代幸雄の美術史家としてのデビューは、日本においてではない。フィレンツェでのバーナード・ベレンソンによる薫陶の成果であるサンドロ・ボッティチェリ研究は、英文著書としてロンドンで一九二五年に刊行された。
 古書店歩きが道楽だった時代に、神保町の美術書・洋書を専門とする書店で二冊ほど視たことがある。途方もない大型本だった。いずれも天井近くの手の届かぬ棚で、知りもせぬ者は手出しするなっ、というふうに立てられてあった。云われずとも英語がろくに読めもせぬ身で、手出しする気もなかったけれども。
 諸学者の解説によれば、挿入図版に部分拡大写真を大胆に採り入れた、世界初の美術研究書だそうだ。『ヴィーナスの誕生』『春』ほかの魅力を論じるに、女性たちの指先や首筋のクローズアップを角版で示しながら、ボッティチェリの技量を分析したわけだ。今日の美術論文にあっては当り前の論述手法だが。
 矢代は生前ついに、日本語訳またはリライトを自身ではしなかった。歿後数年経って、お弟子がたによる共同訳が出た。その『サンドロ・ボッティチェルリ』(岩波書店、1977)の翻訳メンバーたるや、吉川逸治・摩寿意善郎 監修、高階秀爾以下四名共訳というものだった。私どもの世代が大家碩学と仰いだ面めんの勢揃いである。
 これは残す。

 『日本美術の特質 第二版』を残す。通読というよりは事典のごとくに、折に触れて部分読みする機会が今後もあるだろうからだ。それに今回古書肆に出す日本美術関連著作は、この一書に収斂するのではとも思えるからである。
 『私の美術遍歴』を残す。自叙伝的回想文集だ。矢代幸雄という人を想う場合に、専門業績を読み取る学識が当方に欠落している以上、自叙伝をよすがとするしかない。東京帝大出身の矢代が、美術学校(東京芸大)閥の強固だった美術界にあって、あながち順風満帆ばかりではなかった件を考えるにも、自叙伝は大切だ。
 『随筆ヴィナス』を残す。この人と出逢うを得た、記念碑的な一冊である。箱や表紙の装丁は梅原龍三郎による。出逢いの一冊はとうにボロボロとなって、本は代替りしているが。