一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

忘恩いくつか



 佐古純一郎の文芸批評に注意深く耳を傾けていた時期がある。

 早稲田だ三田だ赤門だといった文学青年街道を歩んだ人ではない。学生時代に亀井勝一郎の門を敲き師事した。海軍に応召し、対馬守備隊の通信兵として敗戦を迎える。戦後洗礼を受け、創元社角川書店に勤務した。創元社と縁の深かった小林秀雄からも指導を受けたそうだ。退職後は文筆のかたわら大学講師生活を送り、母校二松学舎大学の教授にして学長をも歴任した。信仰者としては、牧師さんである。

 鬼の首を獲って文芸ジャーナリズムを騒がせるような批評はしない。戦争体験者かつ信仰者として、おだやかな口調で根源を説く。著作や評論の表題に明瞭だ。「文学はこれでいいのか」「文学になにを求めるか」「文学をどう読むか」などなど。
 『小林秀雄ノート』は直接指導を受けた先人を身近にあって理解した人の強味があり、今日の尖鋭な論客はどうおっしゃるか知らないが、入門書としては今もって有効だろう。
 『椎名麟三遠藤周作』は両受洗作家を信仰者の側面から眺めた、異色の作家論だ。ほかの切口から作家理解に及ぶほかない後学にとっては、またとない参考指摘を含んでいよう。
 私にとってはご恩ある書籍たちだが、人心の根源に立ち還って静かに内省する殊勝な時間なんぞは、もう私には訪れまい。佐古純一郎を古書肆に出す。

 ただし『近代日本思想史における人格観念の成立』一巻だけは残す。
 明治期前半の丈高き先人たちが、西洋語の術語のあらかたを漢字に移して日本語化しておいてくれた。おかげで後進は、哲学も科学もその他の学問も、ある段階までは自国語のみで進めることができる。文学そのほか言葉による技芸もさようだ。
 その各論的実例として、パーソナリティー(personality)が「人格」と表記されて文界・学界・ジャーナリズムに登場したのは、いつ誰によって、いかなる経緯によったのだろうか。著者は明治年間の新聞・雑誌・著作・講義録を博捜して、初出を追究してゆく。時は明治二十年代、「人格」という用語を喧伝した人として、井上哲次郎といった名も挙ってくる。文人でもジャーナリストでもなく、体制側も体制側、時の東京帝国大学教授だ。
 おそらくこの研究にはまだまだ先がある。究明の側面だけでなく、影響と拡がりの問題、英語パーソナリティーと日本語「人格」とは正確に同義か、それとも汎用過程で変質を遂げたかという問題、その他である。貴重にして興味尽きぬ一書だ。

 師弟関係ということだったのだろうか、書架では佐古純一郎の隣に亀井勝一郎のごく月並な普及本が二冊残っていた。このさい古書肆に出す。
 三十歳代に一度、六十歳手前でもう一度と過去に二度ほど、蔵書処分を敢行した。六十手前のとき、亀井勝一郎はあらかた出したはずだ。まあこれくらいは基本だからと、眼こぼししたものだろうか。記憶にないが。
 あとに残るのは、変色しきった文庫版『島崎藤村論』のみだ。さすがにこれは、古書肆ご店主にご迷惑だろう。


 自分には学究の素質がない、学問的環境もないと、ごく若いうちに自覚した。引け目から、なにかに取りかかろうとするさいに、基本力の不足を補うべく、まず概説を抑えようと図る癖が身に着いた。二列横隊に詰められた書架の後列から、その残骸が出てきた。
 『講座 日本思想』全五巻を古書肆に出す。『近代日本思想史講座』のバラ本三冊を古書肆に出す。

 四十歳前後のころだったか、池田晶子という面白い文筆家が登場した。三田の哲学科を出たたいそう美形の女性で、女優さんだかモデルさんだかを兼業しているとの触込みで、小ブームが巻起った。
 お叱りを受けると承知で申せば、哲学エンターテインメントだ。哲学用語も学問的術語もいっさい用いずに、哲学を祖述もしくは紹介したエッセイである。思わず膝を打つほど面白かった。

 哲学とは本来、難解な論理体系のことではない。「哲学する」という動詞がまずあって、その抽象名詞化として派生した名詞に過ぎない。では「哲学する」とはいかなる動詞かと申せば、「知恵を愛する」という行動・態度を指す。考えつつ行動する、また行動しながら考えることが好きだ、という意味である。
 明治期の丈高き先人がたに対する忘恩ながら、フィロソフィーに対する哲学という訳語だけは上出来とは申しかねる。直訳的に「愛知」としておけばよろしかった。名古屋市のある愛知県の愛知である。裏返せば、あの一帯は哲学県と称んでも差支えない。

 池田晶子が云ったのは、ねぇみんな、肩の力を抜いてランララランで哲学しようよ、ということだと私は読んだ。深く同意した。
 しかしこの手の文業は、手口を了解してしまうと、あんがい早く飽きがくる。その後長く愛読者であることはできなかった。
 惜しくも早逝した有能な文筆家だったが、今回古書肆に出す。