大きなことを考えたり、決断したりすると、たいてい間違えるようになった。
修身斉家治国平天下と『論語』は云う。まずは自分の身を修めることからという意味だが、乱暴に云い換えれば、テメエの頭の上の蠅も追えぬくせしてデカイ口を叩くんじゃねえ、という意味だ。が、文言もさることながら、順序が勘所だと読んでいる。仁は身近から順に施してゆくほかないのだ、という含意だ。
衣食足りて礼節を知る、とも云われる。これも身に覚えあるし、実例を世間によく視かける。「頭の上の」とは順序が逆の教訓と、読めなくもない。古代の賢人らは、ああでもあるしこうでもあると、そりゃあちょいと見には矛盾撞着する真理をいっぱい云っているさという、これも一例だろうか。
わが身の耄碌について考えた場合、とにかく大きな問題・重要な問題については分別盛りのかたにおすがりして、腕に覚えのある些細な問題のみにかまけて過すのが無難と思われる。
大学に入ったころ、西洋哲学についても少しは解りたいと、念じたもんだった。それまでに薫陶を受けた恩師からは、かように釘を刺されていたのだ。
「哲学ってやつはひと繋がりでね、どこから入っても結局はプラトン・アリストテレスまで遡っちまう。そこへゆくと文学はいい。好き嫌いの主観から入って、しかもある点から先には関心ないと、遮断することもできるからね。サルトルなんぞもね、文学部分だけを読んで、哲学部分にまでは踏込まないのが賢明だね」
むろん私の学力の限界を視越したればこそのご忠告だったろう。哲学科でカントを読まれたのち、国文科に入り直して、東京大学の卒業証書を二枚お持ちという、いささか変人めいた恩師だった。
そうは云ったって、まったく無知というわけにもゆくまいと、入学後の私はまず広い視野に立った概説や総論を探そうと考え、古本屋を歩いて、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を買いこんだ。
当然ながら、噺はイオニア海岸のミレトス学派から始まるわけで、ソクラテス登場にまではなかなか至らない。今読み返すとけっこう面白いのだが、二十歳の私には気が遠くなるようだった。加えて、溜り場の喫茶店や麻雀荘での先輩がたからは、ケッ、お前そんなもん読んで、馬鹿じゃねえの? と、おおいに嗤われた。
なるほど、たしかにこの入門法は道のりが長過ぎると自分でも感じて、以後は必要が生じたときに哲学人名辞典を引くかのように拾い読みしただけだった。若さゆえの早計かつ短慮である。今想えば、砂を噛むような退屈かつ迂遠な道であっても、いったんは読み切っておくべきだった。
七十過ぎての後悔なんぞは役に立たない。ラッセル『西洋哲学史』を古書肆に出す。
学科の垣根を踏み越えてあちこちの教室を遊んで歩いているうちに、自分の関心の中心は日本の美意識の伝統と系譜だと、見当がついてきた。大和魂と漢才(からざえ)だの、優美と静寂美だの、「たをやめぶり」と「ますらをぶり」だの、弥生的原型と縄文的原型だの、様ざまな二項分類の周辺をうろつくようになっていった。
おそらくは西洋にも似た伝統があるにちがいないと見当をつけ、ディオニソスとアポロという問題に逢着する。むろん血気盛んな未熟学生にとってはアポロなんぞはあと回しで、まずディオニソス観念に飛びついたのだった。
それでなにが解ったのか、その後の人生に良い影響があったのかと問われれば、答はノーである。
カール・ケレーニー『神話と古代宗教』『ディオニューソス――破壊されざる生の根源像』二書を古書肆に出す。
アンリ・ジャンメール『ディオニューソス――バッコス崇拝の歴史』を古書肆に出す。
ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』全三巻を古書肆に出す。
書架において、それら名著大著と隣り合せて収納してあったということは、当時なんらか関連づけて考えていたのだろうが、記憶していない。
シモーヌ・ヴェーユ『ギリシアの泉』を古書肆に出す。
生田耕作 編訳『愛書狂』を古書肆に出す。
しょせん私ごときには、たとえば『中公 世界の名著』のような、詳しい解説と年譜が添えられた代表作アンソロジーがあれば足りる。そういうアンソロジーのごくごく古いものとして、『世界大思想全集』(河出書房)の端本二冊が出てきた。スピノザ・ライプニッツ篇とレッシング・シラー・ゲーテ篇だ。高橋義孝訳の『ラオコーン』など、少々気を惹かれはするが、きっと今の私には理解できまい。古書肆に出す。