一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

カレンダーの師走



 来年のカレンダーを頂戴すると、いよいよ歳末到来との気分になる。

 会社員時代、および看病・介護時代には、玉カレンダーを壁に掲げてあった。全面格子にひと月分の玉(数字)だけを大きく印刷した、表紙を含めて十三枚つづりの、小ざっぱりデザインによる大判カレンダーである。予定事項を書込む余白がたっぷりあって、もっとも実用的だった。外出・面会・約束・申込み・締切りなど、記入しておくべき行動予定がふんだんにあった。
 年を追うごとに、さほどの余白は必要なくなってきた。やがて書込みの量は無きに等しくなった。

 今では拙宅に三種類のカレンダーしかない。居間の壁には、わがメインバンクたる巣鴨信用金庫さんから配布されたカレンダーが掲げられてある。縦長サイズの上半分が絵画のカラー写真で、下半分にふた月分の玉が並んだ、表紙を含めて七枚つづりだ。記入用の余白はこれで十分足りる。わが家にあっては最大型のカレンダーである。
 最小型となると、長財布ほどの大きさの、浅草今半さんのカレンダーだ。これからの時期に進物や手土産の買い物をすると、おまけとしてくださる。壁掛け用にも卓上用にもなる工夫がされてあって、私は冷蔵庫の横面に掛けて重宝している。ゴミ出しの曜日やベーカリーの休日など、台所にあってちょいと確認したりする用となる。
 あいだの中型は日本共産党のカレンダーだ。ふたつ折り状態でいただくときは週刊誌大で、開いてふた月ぶんが見えるように掛けてもその倍サイズに過ぎない。寝室で箪笥の横面に吊るして、ベッドから見えるようにしてある。就寝前や起床直後は頭がぼんやりしていて、今日はなん曜日だっけ、なにをする予定だったっけと、情けないほど初歩的なことを思い出したりするのに必要となる。

 カレンダーとは用途が異なるが、ほかに暦の関連で申せば、金剛院さんが冊子状の暦をくださる。有名な高島易断による易学暦の仏法版のようなものだ。仏教行事予定のほかに、干支や節季にまつわる事柄や法事の作法、それに歳時記的な話題も盛込まれて、毎年たいそう読みでのある冊子となっている。
 あとは手帳にカレンダー機能がある。高橋書店刊行の同じ型番の手帳を使い始めてから四十年ほども経つだろうか。途中で会社員時代に、日本生産性本部のものや産業能率協会のものを試した年もあったが、結局は高橋書店のものに戻った。約束事の少ない編集で自分本位に使える点で、私には最適の手帳と感じている。
 
 本日まず先頭を切って、共産党の来年カレンダーをいただいた。そんな時期になったのだと、改めて実感させられる。
 今週中にはロフトにでも出向いて、来年の手帳を調達しなければならない。郵便局に寄って、お年玉つき年賀はがきも。こちらも購入枚数が近年激減した。