一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

繕いもの


 繕いものの BGM はユーチューブ動画のカーリング試合中継にかぎる。試合展開がゆったりしているし、ヘッドホン越しに音声さえ聴いていれば、眼を離していてもおおよその場面は想像がつくからだ。異変が起きて重大局面が到来したら、ンッ、ナンダッテ、と画面を観る。
 裾かがりだの鍵裂き修復だのは、だいぶ前からいけなくなっている。だいいち針の孔に糸が通らない。指貫で針の頭を押しての運針も、とうにいけなくなっている。かろうじてできるのは、セーターのほころび穴の修理くらいだ。毛糸用太針の長孔になら、糸が通せる。

 母は家事の技術については多才多能の人だった。裁縫も洗い張りもした。障子張替えや刃物研ぎも巧みだった。戦前の女学校被服科での教育というものは、たいした実力だった。
 趣味を兼ねて晩年にもっとも打込んだのは、編み物だ。ひととおりの初級程度だったものが、より上達したいとの意欲を発して教室へと通い始め、娘の年齢に相当する同級生たちと並んで、熱心に稽古し始めた。我流とはいえ長年の下地があったからか、上達は早く、教室では師範代の役割を任命されたり、同級生たちのために見本教材を編むよう命じられたりするようになった。しまいにはあの編みかたでセーターを頼みますと注文を受ける羽目に陥ったりもした。ついには師範の免状を渡されてしまい、もはや通学に及ばず、自分で教室を開くようにと、先生から申し渡されてしまった。

 とはいえ母には、教室を開設してお弟子さんから月謝をいただく気なんぞは、さらさらない。同好の婦人と寄り合って、ああじゃこうじゃ云いながら、楽しく編み物ができれば満足なのである。教室から追出された恰好の母は、おおいに面喰った。
 しかたなく二階の六畳間と付属の廊下とをぶち抜いて即席のミニ会場とし、お弟子に教えるのではなく一緒に編み物を愉しむのだという、教室なんだか同好会なんだか得体の知れないグループ交際が始まってしまった。月謝というのも気に染まぬから材料費をお預かりするという形式だった。材料費だけで習えるというので、お弟子さんはすぐに集って、賑やかになった。
 母のやり口は教えるというよりも、やって見せる方式だった。見本を編んで見せて、そのお弟子に進呈してしまった。素人目には洋品店に並ぶ商品としか見えぬ手編みセーターやカーディガンが、惜し気もなくお弟子たちの手に渡った。六十歳で乳がんが発見され摘出手術を受けるまで、そんな日々が続いた。

 幸運にも手術後の経過は良好で、暮しに支障はなかったが、予後の気配りを欠かすわけにはゆかず、同好会教室は閉鎖された。術後五年ラインをも十年ラインをも無事に越え、やれやれこれならと安堵しかけた七十二歳のとき、転移再発が発見された。以後八十歳にて他界するまでが、いわゆる闘病生活である。
 歿後私には、手編みのセーター二着とベスト一着が残された。いずれも複雑な模様編みをお弟子に示すための見本だが、採寸モデルに私を使ったものだから、サイズはピッタリだ。今でも着ている。いよいよ後期高齢者というジジイが、三十年前に亡母が編んで残したセーターを着ているなんぞは、幸せと申すべきか、薄気味悪い世界と申すべきか。
 二着のセーターのうち、外出用としてあるほうは現在もいたって丈夫だが、日常のべつ着用に及んでいるほうは、近年はすぐに穴が開くようになってきた。虫食いではない。毛糸が擦切れてくるのだ。むろん私が修理する。よくよく眺めれば、拙い修理痕の引きつれや編み模様の乱れが、あっちにもこっちにもある。だが人前へ出るわけじゃなし、出来映えなんぞ知ったことではない。寒くなければよろしいのだ。

 師走恒例だが、金剛院さまが来年の暦『豊山宝暦』を送ってくださった。暦といっても、真言宗豊山派により発行された表紙を含めて三十六ページもある冊子だ。日々の干支やら節季やら、行事やら仏事やら、様ざまなことがビッシリ書込まれてある。読んでいると、来年の大晦日まで、自分は生きていられるんじゃないかという気になってくる。
 この暦をいただいて、毎年まず一見する表がある。来年の回忌一覧表だ。なん年に他界した仏が、令和六年にはなん回忌を迎えるかと、確認する表である。頭に入っているようでも、耄碌の加減かつい勘違いする場合もあって、この表はありがたい。
 今春十七回忌法要を済ませた母は、来年は十八回忌だし、父は十六回忌だ。よし、来年は法事なしだと、改めて確認した。

 通夜の晩だったか、読経を了えられた先代ご住職から控室へ呼ばれ、母に捧げる漢字一文字はあるか、または母の生涯を象徴するがごとき一文字はあるかと、訊ねられた。即座に「繕」とお応え申しあげた。
 職業がら父は、ご近所からも世間からもいくらかは知られた存在かもしれない。母はまったく陰に隠れた存在だったかもしれない。だが家庭内から眺めると、少々異なる風景もある。母の裁量なしには、父の仕事も業績もありえなかった。父の一途を支え、狭窄を弛め、ほころびを繕ったのは、すべて母である。家庭内の恥かもしれぬ云いかたを、私はあえてご住職にした。ご納得くださった。
 ―― 梅光院正繕妙久大姉
 向うへ逝ってからの、母の名である。