一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

吉田秀和



 読解力があるうちに、この人のものをもっと読んでみたかった。基礎教養があまりに足りなくて、果せなかった。

 とある吉田秀和評に、こんな一節があった。音楽の吉田秀和、美術の高田博厚、文学の小林秀雄。三人の文章を、たんに音楽論・美術論・文学論として読むべきではない。ジャンルの垣根を越えた芸術思想論・哲学論として読むべきだ、と。高田博厚小林秀雄はすでにわが読書範囲に入っていたから、いっこうに不案内だった吉田秀和という名に、新たに強烈なスポットライトが投じられた想いがした。
 志の背丈が高い、怖い人を想像した。だが NHK 教育テレビに出演して音楽解説する姿は違った。白髪混りの長髪姿に含羞ただよう温厚な表情をたたえ、かすかに喉に引っかかるかすれ声をもって、噛んで含めるようにゆっくり語っていた。想像したより控えめそうで、地味な印象を受けた。

 こんなエピソードも読んだ。『小林秀雄全集』第何巻かの月報ではなかったろうか。成城の大岡昇平邸に招かれて三人で飲んでいるうちに、すっかり聞し召した小林秀雄が、部屋の隅のレコード棚とスレテオ装置を指して、
 「オイ大岡、天才を聴かせろ天才を。一流でなけりゃ許さんぞ」
 と云い放った。
 「天才? そんなもん、ウチにあったかなぁ」
 大岡はつぶやきながら立って行って、レコードを引抜いたり戻してみたり、困った表情で立ち往生している。視かねた吉田秀和が、出過ぎた無礼とは重じゅう承知しつつも、
 「大岡さん、よろしければ私が探しましょうか?」
 と切り出した。「頼むよ、吉田君」となって、吉田がレコード棚の前に立った。物色してみると、なるほど曲が小林好みであっても演奏が不出来だったり、指揮者は一流だがこの盤の録音はイマイチだったり、吉田から視てなん拍子も揃った天才による一流の演奏盤となると、視つけがたい。これだったらマァドウニカという一枚をようやく抜出して、ターンテーブルに載せた。室内に音が流れ出すと、
 「うん、なるほど、こう来なくっちゃいけませんや」
 小林はとたんに相好を崩して、上機嫌になったという。
 エピソードを披露した吉田秀和の文章の結びはこうだ。直観的に一流を嗅ぎつけてしまう小林さんは偉い。しかしウチに一流なんてあったかなあとオロオロできる大岡さんも、負けず劣らずに偉い。
 嗤われるかもしれないが、いやきっと馬鹿にされることだろうが、この短文は長く私の記憶に残って、作品や作家を読み分けるさいのわが指針を側面から支えてくれることとなった。

 昨日ロートレック関連書籍を整理したなかに、吉田秀和の一書が混じった。音楽批評家による専門外の美術論かとも早合点されようが、さようではない。芸術作品における空間表現論である。今日整理する『調和の幻想』と一対の書として読まれるべきものだ。
 浮世絵に触発されたとされる超近景と中景遠景の独特な遠近法の考察。藍と朱とを並べて塗ると、藍が遠く見え朱が近く見えるという、視覚の習性から来る色彩遠近法の問題。王朝絵巻や屏風絵に登場する、遠ざかるにつれて幅が広くなる逆遠近法の問題。いずれも美術・音楽・文学の壁をぶち抜いた、作品空間概念の把握に関する独自の着眼である。

 『吉田秀和全集』の第一巻のみがある。モーツァルトに関する文章が集められてある。吉田秀和から教わったモーツァルト像を背景に置いて、小林秀雄『モオツァルト』を再読するというような機会は、もう訪れまい。吉田秀和を古書肆に出す。