一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

文字という世界



 文字らしい文字、立派な文字というものが、あるのだろうか。あるような気がしている。ただし巧い拙いとは少し違うような気がする。美しい醜いとも違う気がする。丁寧な文字か粗雑な文字かなんぞは、初めから論外だけれども。

 明治の元勲と称ばれる政治家・政商らの書や書簡を評した、榊莫山の言葉が残っている。巧い、平凡、下手、貧相、字になってない、などなど、忌憚なく評されてあって痛快だ。評価の基準も分れ目も、むろん私には解らない。ただ在世中の業績や、巷間伝えられる人柄や伝記的事実とは一致しない場合がしばしばで、面白いもんだなあと記憶している。
 榊莫山は伊賀の人だ。大正十五年(1926)生れだから学徒出陣兵として徴兵されたが、九死に一生を得た。学生として教員として、京都にも大阪にも住んだ時期があるが、生涯の大半は三重県伊賀で過した。松尾芭蕉の故郷であり、忍者の里である。
 二十歳で書道の師に入門したが、二十五歳で日本書芸院展の最高賞。以後二十歳代のうちに賞を総なめにする観があって、師の他界を機に書壇とは縁を断って、さっさと脱俗の独自流となってしまった。
 書道にはまったく無知な私なんぞは、宝酒造の TV コマーシャルで「バクザン焼酎の莫山先生」として知った。容貌・表情が大映しにされただけで「何者かは存じあげぬがタイヘンな人にちがいない」と印象付けられてしまった。果せるかな、たいしたかただった。


 古代から近代まで、最澄空海から熊谷守一までの書の特質と持味とを解き明かしてくれる『書のこころ』。墓石や道祖神や石仏に刻まれたまま風化に任されてきた文字たちのなかに見事な芸を発見する『野の書』。自伝と述志とを兼ねた回想的随想集『花アルトキハ花ニ酔ヒ』。隠棲するかの伊賀での暮しを綴った晩年の随想集『草庵に暮らす』。どれも私流の基準によれば、ゆるぎなき名著だ。NHK 放送大学でのテキストは、のちに刊行される『書のこころ』の原型だが、初心者には読みやすい。
 しかし私にはあまりに手の届かぬ種類の見事さである。このさい古書肆に出す。


 弘法が筆を選んだか、選ばなかったか、私は知らない。はっきりしているのは、腕に覚えのある人が語る手道具についての噺には、退屈したことがないことだ。漁師だろうが料理人だろうが、線路工夫だろうが版木彫りだろうが、体験から選び採り、またみずから工夫して造り出した道具についての噺には、いずれも私の想像をはるかに超えた興味深さがある。
 文人にとっての道具となれば、申すまでもなく文房四宝だ。筆、墨、硯、紙である。この人が語る古今の四宝の噺が、つまらぬはずがない。榊莫山その人を知らずとも、その作品を観たことがなくとも、この箱入り四巻セットにさえ眼を通せば、とある精神が伝授されよう。極め付きの集大成と称んでもいい。
 が、これも今となっては、私には敷居が高過ぎて、役立てられない。古書肆に出す。

 喋り言葉が言語であって、文字はそれを記録・保存する道具だと考える人がもしあるなら、気の毒な人だ。そういう国か民族がもしあるなら、先の知れた国であり民族だろう。
 関係や意思疎通を固定化・持続させる点にしか文字の存在意義を認めないのであれば、文学も哲学も発生しなかったはずだ。身に帯びた文字はわが宿命のようなものだ。さればこそ古代の賢人は「易」を発明し、「詩」を尊重したにちがいない。
 また筆跡は私自身にちがいない。私はとうとう能筆にも速筆にもなれなかった。中学一年生の筆跡で半生を通さざるをえなかった。あまりに拙い自分の筆跡を知るがゆえに、いつもゆっくり書こうと努めてきた。書体が拙いのだから、せいぜい読みやすく丁寧にと、自分に云い聴かせてきた。文字が巧く書けないことについての、せめてもの言いわけだった。
 近年ようやく、この下手くそな筆跡こそが自分自身だと、自覚するようになった。ところが皮肉なもんで、さよう思えてきたころに、わが筆跡が崩れ始めた。横棒も縦棒もまっすぐ書けずに、字が歪みふらつくようになってきた。若いころ、老人の筆跡はどうしてこうもフワフワしているのだろうと呆れたもんだが、その老人の筆跡に自分がなってきたのである。

 さあそこでだ。立派な下手と見すぼらしい下手とはどう異なるのか、という問題だ。近代日本屈指の画人であり書においても一流なのは熊谷守一だと、榊莫山は断言している。「下手も絵のうち」と云って憚らなかった熊谷である。九十一歳のころだったか、八十五歳の毛沢東の書を眼にして「毛さんもだいぶ解ってきたようだ」と評した、あの熊谷守一である。
 熊谷守一の書たるや、老人筆跡の極みだ。しかしその立派さは、私の眼ですら解る。では私の下手と、熊谷の下手とは、どう異なるのか。違いが見えぬではない。一目瞭然、まったく異なるのだ。が、どう違うか、言葉で説明せよと迫られると、応えに窮する。