一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

正直か芸術か

谷川徹三『こころと形』(岩波書店、1975)

 心が形として素直かつ正確に現れたもの、それが美であるとは、谷川徹三の揺るぎなき信念だ。もうひとつ、天地万物に神宿る汎神論的な天然自然観があって、人の心が素直に表現された美には、天然自然の形とかならずや溶けあうに違いないとの、これも揺るぎなき信念である。

 『こころと形』に収載の諸論は、前二著『芸術の運命』『繩文的原型と弥生的原型』と三幅対をなすとも、一連の集大成ともいえる。桂離宮の庭や伊勢式年遷宮を語り、能名人のとある所作や雅楽を語り、玉石や埴輪を語る美論は、読者のおおかたに等しく馴染みある世界とは申せまいが、一連の谷川芸術論に眼を通してきた読者には、いかにもの感を抱かせる。が、それらは結論もしくは結論の復習だ。実例提示ともいえる。
 問題はやはり、芸術家個人による作品の姿に言及した諸篇だろう。

 志賀直哉の容態が予断を許さないとは知りつつも、なんとしても観ておかねばならぬ物を確かめに、谷川夫妻は台北故宮博物院へ赴いていた。これから帰国するという日に、新聞で志賀の死を知る。空港で待ち受けた息子(詩人の俊太郎さんだろうか)の車で、志賀邸へ直行したという。
 夜更けて、志賀邸を辞するとき、しばらく志賀さんについてはなにも書きたくないと思った。が、生前の交友は隠すべくもなく、帰宅してみたらすでに、新聞社や放送局からコメントを求める、いくつもの電話伝言が入っていたそうだ。すべて辞退したのだろうが、過去の経緯から断りきれなかったのであろう『世界』掲載の一篇が、本書に収録されてある。翌年、とある出版社の企画による志賀直哉アンソロジーが刊行され、その解説として書かれた一篇も、収録されてある。
 世に数多ある志賀直哉論のなかで、両篇がいかなる位置づけをされているかについては、まったく知らない。ただ志賀直哉とはいかなる作家だったかを、明瞭に描き留めた点ですこぶる解りやすい、行届いた文章だとは断言してよい。

 志賀直哉にとっての「自由」「正直」「自分を活かす」とはいかなることかを考えるに、『剃刀』『濁った頭』『范の犯罪』などが吟味されるべきは当然だが、谷川は『濁った頭』を丁寧に読み返している。執筆当時の日記と後年の回想『創作余談』と作品本文との三者を読み比べて、着想から第一稿、推敲削除そして書直し決定稿への推移を辿ってある。むろんたんなる興味本位からではない。描きつつ考えることで、主人公のみならず作者自身が考えを深め、自分により正直たらむとし、ついには決断する過程が明らかにされてある。
 社会通念や道徳ではない。内発倫理が追求されてある。生命の天然自然が追い求められてある。それが志賀文学だと、谷川は云いたげだ。

 そんな追求は倫理学や宗教の課題であって、芸術の使命ではあるまいとの横槍も当然入るだろう。が、それこそが日本の芸術伝統だと、谷川は考えている。
 詩的直観を磨きあげ、心境を研ぎ澄まし、それを忠実に吐露することで表現とする日本の芸術伝統に、太古の土器や埴輪も、中世の道元親鸞も、熊谷守一坂本繁二郎も、そして志賀直哉もきっちり乗っていると、谷川は云いたげだ。
 対話から始まった西洋芸術の客観表現志向とは、根柢的に異なる、もう一つの芸術観だと提唱されてある。水墨画に油絵の境地を求めても始まるまいと云っている。

 志賀直哉文学には永井荷風谷崎潤一郎の文学とは異なって、情念の葛藤などない。葛藤は私生活において闘われ、結果のみが作品化された。
 荷風も谷崎も、西洋芸術の流れに沿った芸術家に違いない。そこまでは読者から容易に同意されよう。問題は次だ。志賀の芸術観は「自分の人間を文学の犠牲にした荷風と好対照をなしている」と、谷川は云う。あまりに残酷な評言といえるが、含意には同意せざるをえまい。というか、同意ではあるが、あまりに残酷だろう。

 志賀直哉を語った文章の隣に、川端康成についての一篇が収録されてある。これも追悼文だ。川端となれば荷風や谷崎に勝るとも劣らぬ、西洋型芸術家である。
 骨董と美術にまつわる、川端との親しい交友が回想されてあり、鎌倉の川端邸を訪門したとある一日の模様が、つぶさに回想されてある。その日も、川端の様子は普通だった。川端が自裁したのは、そのわずか三日後だったそうだ。
 川端の文学については、谷川はひとことも語っていない。