一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

むき出しの第一次

 

小澤征爾、兄弟と語る』(岩波書店、2022)

 

 板垣征四郎石原莞爾とから、一字づつ取った命名とのことだ。

 小澤征爾の父開作は苦学して歯科医となったものの、五族共和の理想に燃えて満洲と北京とを往来する政治運動家だった。対立する東條英機派に敗れて家産いっさいを喪い、昭和十六年に帰国した一家は困窮生活に入る。そんな暮しにあっても父母は、四人の息子たちへの教育にだけは驚異的な努力を注いだ。他界した長男(彫刻家)を偲びながら次男(文学者)と三男(音楽家)と四男(俳優・文筆家)とが家族史を回想し合う本書は、まず両親の並はずれた教育熱心への感謝と驚嘆とから始まる。

 小澤征爾が後年小林秀雄と面談したさい、開口一番「ぼくは君の親父を知っているよ」と声を掛けられたそうだ。かつて所用で満洲を訪れた小林は、酒席でのことだったか、小澤開作と取っ組みあいの喧嘩をしたという。一家帰国後の困窮生活にあってミシンを売って歩く仕事に従事していた開作は、鎌倉の小林邸へもミシンを売りに赴いたという。
 そんな暮し向きでも、征爾には音楽の才能があると話す兄たちの言葉を聴きつけた父は、伝手を頼って格安の古ピアノを譲り受けた。兄弟は何日もかけて、リヤカーに載せたピアノを運んだという。
 かの時代、日本人はこのように生きた。なかでとある一家においては、このようであった。三兄弟によって回想され継ぎ合される家族史は、風化されぬままに今もむき出しの第一次資料の連続だ。

 国費留学の選に漏れた小澤征爾は、伝手を手繰って商船会社の貨物船にもぐり込んだ。荷物はギターとスクーター一台だった。マルセイユ港からパリまでは、オンボロスクーターでなん日もかかったという。
 指揮者の登竜門たるコンクールで好成績をおさめた小澤は、カラヤンに弟子入り志願する。およそ一年の弟子生活だった。パリからベルリンへの道のりも、とんでもなく遠かった。
 登竜門での好成績その他の受賞で、アメリカの一部有識者にも小澤の名が聞えたから、クリーブランドかニューヨークでアシスタントに就かぬかと声がかかった。クリーブランドがどこかも知らないから、それじゃあニューヨークと応えた。バーンスタインと出逢うことになる。

 カラヤンバーンスタインとは仲がよろしくないとの噂を耳にした。人にも相談したが、つまりは体当りしかない。ニューヨークからの招請状をカラヤンに見せた。師は言下に、行って来いと応えた。戻って来たら、また教えてやるとも。
 おりを窺ってバーンスタインにも、じつはカラヤンの弟子なのですがと告げた。いきさつの一部始終を聴き了えたバーンスタインは、腹を抱えて大笑いしたという。その後ニューヨーク、サンフランシスコ、ボストンと滞米生活はなん十年にもなり、ついにカラヤンのもとへ戻る機会は訪れなかった。
 解説しようとしても註釈しようとしても、浮ついた二次情報となってしまう。逸話自体が歴史であり、無垢の第一次資料である。

 九回にわたる回想鼎談には、さぞかし豊富で耳寄りな脱線・寄道の逸話も多かったことだろう。だが四男小澤幹雄ほか一名の内容構成者により、厳しく刈り込まれた。娯楽要素を捨てて、歴史に徹したとも云える。名著の、ひとつの条件である。