一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

使いみち



 後期高齢者医療被保険者証というものを、持たされている。まだ提示してみたことはない。

 つい先だってまでは国民健康保険の被保険者証だった。国民から後期高齢者へと変ったことについては、異存ない。お前なんぞもはや国民の勘定に入らんぞと念を押されているようで、むしろサバサバした納得感すらある。老害を指摘されながら、すでに自分が国民勘定に入っていないことにも気づかず、地位や権力に執着せざるをえぬ立場のかたは、お可哀相だ。
 ただし健康保険から医療保険への変更はどうなのだろう。国民であれば、だれであっても健康維持が望ましい。飽くまでも回復しての社会復帰が目途だ。ところが後期高齢者ともなれば、死期を早めるか延期するかの医療選択となるに決ってると、そうはっきり断定されてもねえ……。正直なら好いってもんじゃないでしょうに。

 千葉大学の法医学教授が落合陽一さんのインタビューに応じた番組を観た。法医学解剖の件数も担当医も、わが国の現状では圧倒的に不足していることは、かねてより承知している。監察医務院も東京都にあるだけだとは、事件ドラマ等でも昔から有名だ。道府県ごとの法医認定医の数も呆気にとられるほど少ない。変死体があっても、都道府県警察の捜査官によって事件性なしとされれば、死因究明の解剖には付されない。急性心不全もしくは突発性ナニガシとして片づけられてしまう。事故死または急病死とされてしまったがじつは殺人事件という事例だって、相当数にのぼるのではあるまいかと、教授はおっしゃりた気だった。

 法医学者として視聴者へのアドヴァイスをと、落合さんからの要請に、教授は三点ほど応えた。
 一、事情が許す限り、高い車に乗ったほうがよろしいですよ。
 交通事故の被害者を多数解剖してこられた教授は、ペシャンコになった軽自動車で絶命し、形を維持できた高級車で命拾いした被害者の例を、あまりに多くご覧になってこられたのだろう。
 二、とくに男は、ふだんからのコミュニケーションを大切になさって。
 孤独死したまま一週間も十日も放置された事例は、男が断然多いという。独り住いでも、女のほうが日常的に言葉を交したり挨拶したりする相手があり、また齢をとってからでも、女はなにかしら老人施設などを自分で探しあててしまうという。
 指摘されてみれば、そんな気もする。別の番組だが、独り住いの若者の孤独死も増えているそうだ。これは突然死というよりは、自殺の側面が半分あるだろうが、いずれにしても傷ましい。
 三、酒と煙草は、どうかおやめなさい。
 耳が痛い。組織がカスカスに劣化した肝臓や、臓器の色とはとうてい思えぬ気味悪い色に変色した肺臓を、教授はたくさん視てこられたのだろう。

 後期高齢者医療被保険者証の裏面にも、国民健康保険被保険者証の裏面と同様に、もし脳死なり呼吸停止の状態に陥って本人による承諾・確認ができなくなった場合に備えて、わが臓器を移植医療に役立てていただくための意思表示欄が設けられてあって、提供したい臓器を選択できるようになっている。生前から他人に云い触らすことではないから、記入後はマスキングテープを貼る形式となっている。
 これまで私は、選択肢すべての臓器に〇を付けて、テープで貼り覆ってきた。が、今回は考え込んでしまった。この世の天然にはありえぬ気味悪い色と化した肺や、スポーツ心臓として極端に肥大化したうえに、先年カテーテル治療で人工的ケロイドを付けた心臓や、劣化のあまりアルコール分解も不十分となった肝臓や、鈍感化した角膜や曇った水晶体など、どこでどうお役に立てるというのか。提供することで、かえってお手間を煩わせるだけではないのだろうか。解剖医の数が、どこでも足りないというのに。

 国民として勘定されなくなるということは、たんに職業人として後進のお役に立てなくなるというに留まらず、生命体として種族のお役に立てなくなったことを意味するのではないだろうか。自分の片づけかたについて、またひとつ考えの糸口が顕れたような気がする。
 後期高齢者医療被保険者証の裏面には、まだなにも書込んでない。マスキングテープも貼ってない。