一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

安心の正体



 改札口を出て階段を降り、この季節だと駅前街路樹のヤマボウシの樹が満開なのを眼にすると、あー帰ってきた、これで安心だ、という気がする。この「安心」ってなんだろうかと考える。
 ある種の疲労、云い換えれば精神の弱まりが、そう感じさせるのではないだろうか。

 要介護3に格上げされるかというころの父には、ソファからベッドへの移動とか、トイレへの移動のさいには、差出させた両手を曳いて、私がイチニッ、イチニッと声を掛けながら後ずさりして、なるべく室内を歩かせるように努めた。機嫌よく歩く日も剛情にむずかる日もあった。
 自前で歩けるのは室内だけで、一歩でも屋外へ出るとなれば、すべて車椅子のご厄介になった。
 通院から帰宅するさいには、近所の停車しやすい場所を決めてあり、そこでタクシーから抱き下ろした父を車椅子に移動させ、あとは家まで押して帰る。父の気を途切れさせぬように、些細なことでも声を掛ける。ハイ曲りまーす。今日はお天気好いですねー。もうすぐですよー。家の前まで来ましたー。反応などないが、聞えてはいるようだった。
 あるとき私ひとりの手には余る便秘症状となって、数日間の短期入院をした。退院の日にも、通院からの帰宅と同じ場所でタクシーを降りた。ハイ家の前まで来ましたー。
 「うん、安心だ」と父が呟いた。
 驚いた。そんな一言は、すでに発しない状態となっていたのである。
 「安心だ」と呟いたそのときの父の気分について、その後も長く考えることとなった。

 
 スーパーの入店口には、買物かごを積みあげたキャスターが並んでいる。私はつねに丈の高いほうの山からかごを取る。買物を了えて退店するときには、低いほうの山にかごを返す。長年にわたり無意識にそうしてきた。ようやく数年前に、その癖に気づいた。
 背丈の等しいふた山のどちらから取ろうかと、迷っている自分に気づいたからだ。どっちだっていいじゃないか。どなたにご迷惑をおかけするでもなし。損得が生じるわけでもない。なにを迷っているのかと可笑しくなり、自分を嗤い、長年の癖に気づかされた。
 ふた山の高さに差がないことをもって、均衡が保たれてあると、安定していると、平穏かつ平和であると、つまりは安心であると、心のどこかで感じてきたのではないだろうか。ではその「安心」とはなんなのだろうか。

 学生時分に伺った、野坂昭如さんの講演に、こんな一節があった。
 ――精神病院を見学したんだ。昼食どきになった。学校の給食と同じさ。でっぱりへっこみで区切られたワンプレートに、主食とおかず何品か、そして汁椀だ。観てるとね、多くの患者さんが、似た食べかたをするのさ。手前の主食をひと口、向うの魚をひと箸、右の味噌汁をひと口、左の漬物をひときれ、そこでまた初めに戻ってと、順繰りに食べるんだな。正確な繰返しさ。好きなものだけを先にがつがつ食うってことを、けっしてしねえんだ。主食の最後ひと口、漬物の最後ひときれ、汁椀の最後ひと口で、きっちり食事を了えるわけさ。驚くべき均等欲求だねえ。
 観てて判ったことがある。平衡を保ちたいんだな、きっと。それぞれ自分の心の病に悩んでおられるから、片寄ることを避けたいんだろう。バランスが崩れるようで、怖いんだろうな。――

 噺はそこから野坂流に展開した。若者よ、好きなものをがつがつ食え。バランスなんぞクソ喰らえだ。無難な平衡なんぞと、精神病に悩む患者さんがたの物真似してどうする。野心的に片寄ってナンボだ。
 おとなしく行儀良すぎる学生たちに、もっと暴れてみろと焚きつけるような講演だった。興味深い趣旨ではあったが、その趣旨であればすでに野坂作品で読んである。私には、掴みといおうか噺の前振りといおうか、精神病院の食事風景のほうが異様に記憶に残ったのだった。


 わが町の駅は跨線橋型の高架駅だから、改札口は階上にあって、入ってから左右に分れて、それぞれ地上にある上り方面下り方面ホームへと降りてゆく構造だ。両方面ともホームへ降りる前方後方ふたつの階段とエレベーターとがある。そして前方か後方いずれか片方にのみ、階段に沿ってエスカレーターが併設されてある。

 私はエレベーターよりもエスカレーターが好きだ。池袋への上り方面へは、後方階段に沿ったエスカレーターで降りる。ホームに降りたらUターンするように前方へと歩を向ける。ある地点から、金剛院さま山門前の不動堂が遠眼に眺められるからだ。日ごろご門前を通るたびに一円参詣を心がけているお不動さまだ。駅に直行する日はお詣りを省略するから、せめてホームから遠望するわけである。
 この地点に立つのであれば、前方階段が便利だ。が、そこにはエスカレーターが沿ってない。で、後方階段沿いのエスカレーターからUターンしてきたわけだ。

 この不合理行動はなんたることか。日ごろの運動不足解消というのであれば、前方階段を徒歩で降りればよろしいのである。ホームへと降りきったすぐ眼の前が、不動堂を遠望できる地点なのだから。にもかかわらず剛情にエスカレーターを使い、わざわざ遠回りしてその地点に立つ。
 エスカレーターとお不動さまと、ふたつのこだわりのどちらをも捨てきれずに、不合理をあえて正さずにいるわけだ。愚癖を改める気は今のところない。私をしてこの愚かしさを貫かせている動力は、いったいなんなのだろうか。
 心の病と闘う患者さんがたが、気分のわずかな傾きをも怖れて、交互食べ・三角食べを守って譲らないのと、似てはいないのだろうか。