一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

手札

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 かく申す私も、無難で安上りということか。

 銭湯のいゝところのひとつは下足場だ。履物入れの小棚が無雑作に並び、それぞれ扉には薄ぺらいポケットが貼り付いていて、番号が振ってある。各ポケットには同じ番号の手札が差してあり、この手札がない番号は現在使用中である。
 手札の下部には切れこみが入っていて、鍵になっている。原始的な仕掛けのようでいて、番号違いのポケットに差してみても、けっして扉が開くことはない。

 なにごとも新式がいゝとばかりは限らない。この下足場を小賢しく改良してしまったお洒落な共同浴場など、私には好ましからざる猿知恵に見えてしかたない。
 なにが好ましいかと申して、店の前に立っただけで、中が混んでいるか空いているか、ひと眼で見当がつく。縁起の良い番号や自分のラッキーナンバーを探す愉しみもある。ひそかに自分の番号を決めてある。あいにく使用中だった場合の第二志望・第三志望まで、決めてある。

 盛んに銭湯を利用したのは、我が家が風呂付きの家に引越すまでだから、昭和二十九年から三十年代前半へかけてのことだが、この下足札の仕掛けは、その頃も今も変っていない。ただし、当時は木製だった手札が樹脂製となってしまった。少々残念な気がする。
  木製の手札を、浴槽に浮べて遊ぶのが、大好きだった。
 木製だと傷みやすく、擦り減って鍵の役割を果せなくなったりすることがあるのだろうか。また現在の技術では、木製より樹脂製のほうが、安上りなのでもあろう。

 湯殿の洗い場で顔見知りとの会話に興じる人の姿も、めったに視なくなった。黙々と身を清め、湯槽にて心身の健康を回復させている。
 めっきり冷えてきましたなぁ。どうです、ご商売のほうは。お聴きでしょうけど、町会長さんとこのワン公、とうとう死にましたよ。駅前の喫茶店、汁粉も出すことにしたそうです。お稲荷さんの掃除当番の順番が、また変るんですって。マンションの外国人が嫌がるらしいですなぁ。

 町内の文化史・文明論の伝播が途絶えた。タイル壁一枚隔てた向うでは、女性たちが経済学や教育論をやっているに違いない。そっちも途絶えがちなのだろうか。由々しき事態と云えなくもない。
 外務大臣の名など知らなくても、芥川賞なんぞ知らなくても、天候とキャベツの値動きの相関を先読みできれば、賢く健全に暮してゆける。

 文学のみならず芸術全般、こゝが肝心なところだ。安藤昌益は囲炉裏端にどっかと座を占めながら、薪や灰や、火箸や五徳や、鉄鍋や自在鉤を使って、世界を表現できた。じぃっと視詰める力が、どれほど凄まじかったのだろうか。

 かく偉そうに申したところで、私も銭湯ではほとんど誰とも会話しない。たまに顔見知りを視掛けても、右手を差上げて軽く会釈する程度だ。

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劇的

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山崎正和(1934‐2020)

 この時代に生れ合せたことは、私の罪なのでございましょうか?
 なんとも鬱陶しい問いだ。すぐ「運命」なんて言葉に直結してしまいそうだ。現在の感覚からすると、根源的ではあるが大袈裟に過ぎて、陳腐とさえ受取られかねない。しかしこの問いが額面どおりに切実で、似つかわしかった時代や人びとがあった。

 戯曲『世阿弥』を引っさげた山崎正和は、戯曲と批評の双方で、この問いを真正面に据えて登場した。
 この文学世代の論客のうちで、もっとも若くして登場したのは江藤淳だったが、桶谷秀昭磯田光一、秋山駿と続いて登場してみると、各々際立った独自性を示しながらも、ある共通する世代感覚の主張の観を呈した。その問題の幕引きを務めた存在が、山崎正和だったと、今にして思う。

 第一エッセイ集『劇的なる精神』巻頭に書下ろされた「無常と行動」は、印象強烈だった。安部公房榎本武揚』、遠藤周作『沈黙』、ノーマン・メイラーアメリカの夢』の主人公たちが見舞われた運命と、それによって生じた内面の崖に光を当てる。『平家物語』に書き留められた鎌倉武士たちの人間像輪郭や、『イリアス』に残されたトロイの武人の最期が想起される。

 人は生れ合せた時代を夢中で生きる。(山崎さんは「時代に忠誠」と表現している。)次なる時代がやって来る。お前の時代は間違った罪深き時代だったと告げられ、人は断罪され、滅ぼされる。二十年早く生れていたら、または二十年遅く生れていたら、時代の常識のなかで生き、慣例に則って死んでゆけたかもしれないのに。
 いっそのこと同時代から顔を背け、なにごとにも関わらぬようにして、シラケた(死語ですか?)刹那的ニヒリストとして生きれば、運命による処罰を免れうるか。そんなことはあるまい。そんなもの、しょせんはカウンター的存在であって、時代の子の一人に過ぎまいから。
 ならばいかにすれば人は悲惨な末路に見舞われずに済むか。なにをどう考えればよろしいのか。

 戦後派作家たち、および第三の新人作家たちによる、戦争期の傷痕の検証が峠を越えたころ、「敵が見当らぬ」「敵を見定めがたい」時代になったと、しばしば指摘されるようになった。江藤淳以下、先に掲げた論客たちは、なんらかの意味でこの風潮を自覚して仕事をした。なんらかの意味でどころか、その問題こそを中心課題に据えて出発したのが、山崎正和だった。

 旧満州国に育った。十一歳のとき、ふいに参戦したソ連が侵攻してきた。暴虐の限り、悲惨このうえない場面を眼にした。父を亡くした。命からがら引揚げてきて、あとは母子家庭だった。
 山崎正和にとって、はなから歴史とは人を裏切るものであった。この世とは理不尽なもので、人間は単一の倫理、ひとつの理想で生きることなど許されていない存在と見えた。
 主人公を中心に同心円を広げてゆくような、小説を書く人の気が知れなかった。双方互いに理解も共感もできぬ複数の中心が、それぞれに覇を競って同時存在する劇の世界にしか、興味が湧かなかった。

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 世界とは、根柢的に矛盾する、けっして相容れることのない複数の理想の同時存在である――。究極の美だの、絶対的な真だの、無際限の善だのを、ついつい想い描きがちだった感傷的な高校生に、この一冊は少なからぬ影響を残した。
 ドラマ論としては、むろん木下順二世界を考えるとば口として。時代の崖に対峙して、いかに精神の自由を保持するかという課題に沿って、やがて福田恆存へと入ってゆくとば口として。複数の焦点によって成立つ楕円的世界という、世界把握の思考技法について、やがて武田泰淳花田清輝後藤明生へと入ってゆくとば口として。

 『平家物語』の取上げかたにも、まことに感嘆久しうしたものだった。小林秀雄『無常といふ事』から来てるなこれは、なんぞと自力で視破れるようになったのは、ずっと後のことだ。

ナンですが

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 牡蠣だけではなく、同じ奥様からはホタテもいたゞいた。これほど型のいゝのは、これまた何十年ぶりかで手にする。貝殻のこの形には、独特の思い入れがある。

 中高六年一貫の男子校に入学して、まず選んだ部活は地質部だった。中は岩石班・鉱物班・古生物班に分れていて、合同活動は合宿旅行と文化祭のみ。日ごろはそれぞれ別サークルであるかのように活動していた。
 私は古生物班を選んだ。一番の愉しみは化石採集のフィールドワーク。ふだんは採集してきた化石を図鑑で調べ、種類や数を分類しては表やグラフにまとめて、生息当時の地形や環境を想像・再現する作業が主だった。
 中学一年生にとって高校三年生はずいぶん大人で、ほとんどのことは高校生の先輩から手ほどきを受けた。顧問の先生との接触は合宿のみと云ってよかった。

 化石採集のフィールドワークといっても、恐竜の時代やアンモナイトの時代の地層にまで探索の手を延ばすことは、中高生の部活では無理で、より新しい時代の地層から、貝殻の化石を採集することが中心だ。甲殻類や魚の骨でも出ようものなら、途方もないお宝だった。
 かつて海底だったが今は陸地となった場所で、運良く(?)崖崩れや造成のために地層が露呈している場所へと出掛けてゆく。そういう場所がどこにあるかについては、抜目なく情報を持っていた。

 近場でしょっちゅう出掛けられるのは、東武東上線の成増あたり。ただ今では賑やかな街に変貌して、かつての崖が今のどこなのやら見当もつかない。つまりは、かつての雑木林を伐り拓いたり、丘を崩して窪地を埋めたりしながら、造成地としてゆく途上の時代だったのだろう。
 もっとも魅力的だったのは、千葉県横田の崖だった。内房線で木更津へ。久留里線に乗換えて横田へ。中学生にとっては、けっこうな遠出である。横田駅からどちらの方角へどれほど歩いたのだったか、まったく記憶にない。田畑の中の道だった気がするのだが、かなり歩いて、高さ十数メートルもある、その崖に着いた。

 地表から数メートルの赤土は関東ローム層。古箱根・古富士の噴火による火山灰の堆積が土となったもので、生物の化石が出ることはない。それよりだいぶ下に白い地層が、横一文字に走っている。土が白いのではない。細かく砕けた貝殻が、敷き詰められたようにびっしり埋っているために、白く見えるのだ。
 とはいえカルシウムの粉に用はない。その白い地層から、無傷の形状を保った貝殻を探し出すのが狙いである。

 リュックを置いて、古新聞を広げる。ハンマーや刷毛を取出して、ベルトに挟む。ハンマーヘッドの片方は大工道具の金鎚と同じ。もう片方は獲物を疵付けずに周囲を掘るために平たくなっている。ただし釘抜きである必要はないから、切込みは入っていない。要するに、化石掘り専用のハンマーだ。良いハンマーを所持していることは、仲間へのちょいとした自慢にもなることだった。

 横田の地層からは、他ではまず出ることのないお宝が出る可能性があった。ペクテン・トウキョウインシス、スペルは知らない。ラテン語学名を、中学生はカタカナで憶えた。通称「東京ホタテ」と称び慣わされる、掌サイズに近い超大型のイタヤ貝である。
 無疵大型であればガラスケース陳列ものだが、まぁ望むべくもない。疵物中型か無疵小型がとりあえずの目標だ。が、ペクテン以外の貝殻も豊富に出るので、可能な限りの種類を集めたい。水深何メートル圏内に分布する貝かを図鑑で調べて、分類することで、当時の海底の様子を探るのだ。

 むろん他のあらゆる所行と同じく、私がペクテンを掘り当てることはなかった。そういう星の下の男である。だが、地質部はじつに面白かった。やり甲斐もあった。
 「なにやってんの! 家じゅう貝の粉だらけにしちゃって、馬鹿じゃないの?」
 母からは、再三どやしつけられたけれども。
 一年半はなんとかなったものゝ、二年生の最後に矛盾が煮詰まった。掛持ちで所属していたバスケットボール部でレギュラーとなり、練習も高度になり、きつくなり、忙しくなった。かなり迷った末に、地質部を退部した。

 もしバスケに熱中などしていなければ。もし中原中也木下順二も知らなければ。もしビートルズで満足してモダンジャズなんぞ聴いていなければ。もし解りもしないくせにドストエフスキーなんぞ読んだりしなければ。もし映画で満足して新劇など観るようになっていなければ。もし高校卒業まで地質部に所属し続けていたら。そっちの道へと進んでいたら。いくらかマシな、もっとまともな人生だったろうか?

 いやいや、それは己惚れというもの。我が気性を想えば、きっとこうだ。
 ――最近の研究者は、デジタルってんですか、知識・情報ばかり頭でっかちになっちまって、現場で化石掘るのがヘタクソでしょう。よろしいんでしょうかねぇ、それで。もっとも、一度も手柄など立てたことない私が、申すのもナンですが……。

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 ホタテですか? むろん美味しくいたゞきましたよ。拙宅ではバターと称んでおりますマーガリンでサッと熱を通しまして、酒と酢と蜂蜜を按配したソースを掛けましてね。
 ヒモはジジイの歯には硬いんで、塩揉みして乾燥させるつもりです。出汁くらいは取れましょうから。

するねい!

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 ご近所の奥様から、殻付きの牡蠣をいたゞいた。こんな立派なものを手にするのは、何十年ぶりだろうか。

 三陸の牡蠣。岩手県山田町から到来物のお裾分けとのこと。山田町といえば、宮古市のすぐ南。かの津波災害では、住いや加工場や船や漁具どころか、港から漁場・養殖場まで、根こそぎ喪失してしまった地域と伺った。
 復興にどれほど絶望的な労力と歳月とを要したことか、見当もつかない。無我夢中の復興努力の甲斐あって、不本意ながらもほんのわずかの再生養殖場から、こんな牡蠣がずっしり引揚げられてきたときは、さて、どんなお気持ちだったことだろうか。持ち重りから感じ取れゝばと、一瞬思ってはみたものゝ、しょせん私には叶わぬことだった。

 くださった奥様のご主人は、国の機関から派遣されて現地赴任した復興担当官で、ご一緒された奥様はもともと諸芸百般のかただったこともあって、移動図書館のボランティア活動を皮切りに、地域の婦人たちの集いや子どもたちへの支援など、多彩な取組みに何年にもわたって明け暮れなさった。岩手・宮城・福島と住替え、もう東京へは戻られないのではとすら、私などは思ったほどだった。

 東京へ戻られたご夫妻には、東北三県にさぞや数え切れぬ思い出がおありだろうし、今に続く幾多の人びととの絆がおありのことだろう。渦中で積まれた徳が、今もこうして現地からの便りとして届き、そのお裾分けが、私の掌に今あるというわけだ。

 私は出張を伴う会社員だった時期もあり、年ごとに開催地が変る全国規模の学会に属していた時期もあったりで、比較的多くの地方へ出向いたほうだが、運というか巡り合せというか、岩手県とは縁がなかった。ようやく一昨年、運が訪れた。
 お若い友人が、花巻で結婚式を挙げられるという。新郎新婦ともが、かつて私の教室に在籍したとのことで、お声掛りとあればお断りすることもできない。しかも花巻、岩手県である。

 晴れの日の前後に、酔狂な旅日程を組んだ。新幹線にて新花巻駅に着いたが、在来線花巻駅へ移動してぶらぶらしてから前泊。晴れの日は式場ホテルで一泊。さらに翌日は遠野まで足を延ばしてもう一泊、という目論見だった。
 書物を通じて、柳田国男からはどれだけ教わってきたか知れない。入口は多くのかたと同様『遠野物語』だ。生きているあいだに一度は訪れたき地のひとつが遠野だった。

 もっとも実際の遠野は、『遠野物語』から軽々に想像してしまいがちな規模より遥かに広い街だとは承知している。一泊程度で回りきれるはずもない。が、私には望みがひとつあった。『遠野物語』ゆかりの地すべてを網羅するなど望むべくもないとして、どうしても入手したい物があった。「河童捕獲許可証」だ。
 沼の畔の草陰に佇んで、夕刻か早朝、もし河童が出てきたら、捕まえてもいゝという、資格証明書である。
 じつは市のホームページへアクセスすれば、観光局から通販で買える。が、それではいけない。市役所なり出張所の土産物屋なり、然るべきところで支給されねば価値がない。面白くもない。ついに長年の願望を果す機会がやって来た。若いお二人の門出をお祝いかたがた入手した「許可証」であれば、なおさらご利益満点に違いない。

 我が半生の悔いのひとつは、履歴書の<特技・資格><賞罰>欄に記入する事項がなにもないことだった。自動車普通免許すらない。近年その機会もなくなったが、かつて履歴書を書く機会があったころ、我が履歴書を眺めては、なんとまあ味気ない、詰らぬ人生だったことかと慨嘆したものだった。
 東京へ戻ったら文房具店へと走り、用紙を買って、提出の宛などなくとも書いてみるか。資格:河童捕獲許可証保持者。悪くない。

 自慢にはならぬが、かといって恥とも思わぬが、私はこれまで、目論見が思いどおりに実現した経験の一度もない男だ。
 仲間の一人が健康を害したと聴いていたから、念のためホテルからもう一人の仲間に電話を入れてみた。内心は高を括っていて、明日こそ「許可証」を手に入れるつもりと抱負を告げる気でいたのだった。
 明日、入院・手術だという。予断を許さぬ事態かもしれぬから、すぐ帰って来いと命令されてしまった。またかよと思いながら、遠野に予約していた宿へ電話。直前キャンセルだから、当然キャンセル料が発生する。請求書の宛先を告げた。
 私は今も、無資格者である。生きているあいだに、遠野へはきっと行く所存。

 牡蠣ですか? もちろん、美味しくいたゞきましたとも。よく殻が剥けましたね、だって? 馬鹿にするねい! 牡蠣の殻剥きに、許可証はいらねえんだい!

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揚げびたし

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 揚げびたし。思い出しながらにしては、まずまず。四五日ほどは食卓小鉢のひとつとなる。

 起床後まず最初にすることは、体重測定だ。ヘルスメーターは洗面所に。喉保護のために首に巻いて寝たタオルを、タオル掛けへ。下着を脱ぎ、太郎を洗面台に置いて、文字どおり全裸でメーターに乗る。
 大切なのは測定後、着衣の順番だ。今どこが一番寒いか、躰に訊く。胸か腋が寒けりゃまずアンダーシャツ、腿が寒けりゃまずパンツ。ひとつ着るごとに訊く。躰は正直で、下半身または上半身ばかり続けて身に着けることは、めったにない。パンツを穿いた段階で躰は、次は上だと、かならず云う。

 老人の一人暮しでは、日常の細かいあれこれまでが、どうしてもルーティン化する。そのほうが安心・安全ではある。が、ルーティン化が進み過ぎると、物忘れ(ボケ)も発生しやすい。無意識に物を置き、あるいは移動させてしまって、さてそれを後のち思い出せずに大汗かくことも起りかねない。いや、しばしば起る。

 そういう事態を避けるには、なにごとに寄らずいちいち、小さな判断を積重ねながら生活するのが良さそうだが、そのさい最有力な判断基準となるのが、躰に訊くという方式だ。躰が(感性が、感覚が)欲していることに、意識と行動を服従させるという生きかただ。
 ところが修行未熟にして技術拙劣。この生きかたにおいて私は、まことにヘタクソだ。当然である。つい先頃まで、細ぼそなりとも世間(社会などというのは気恥かしい)と繋がっていたし、その一員でもあった。そこでは、ひと様へのご迷惑を遠慮し、約束を遵守するのが最優先で、己の躰の声を聴くなんぞは、後のあとの、そのまた後回しが当り前だった。
 が今、第何番目かの人生に入って、この技術に熟達せねばと、しきりと思うに至ったわけである。

 永らく椎茸を食ってねえなぁ。突然痛切に思った。ということは、精神衛生上からか肉体健康上からか、躰が椎茸を欲しているに相違ない。たしかに日常定番の煮物炊き物に、椎茸を久しく使っていない。よしそれならばと、普段の甘辛に替えて、酢を利かせた出汁にしての揚げびたしを思いたった。
 まず天ぷら鍋の機嫌を伺わねばならぬ。フライパンと中華鍋は毎日のように使う。焼くか炒めるか、せいぜい蒸すかで、揚げることにはずいぶんご無沙汰だ。油を大量に消費するし、粉類やパン粉も面倒臭い。買うと使い切らずに余らせて、無駄になりやすいからだ。案の定、天ぷら鍋の機嫌は悪く、まずこの機嫌を戻す。

 揚げびたしなら、野菜類は素揚げでいゝし、トリ肉には薄く粉をまとわせるのみだから、世話なしだ。今回は魚を使う気はない。料理本にはきっと、片栗粉なんぞと書いてあるのだろうが、わざわざ買う気はないから、小麦粉で十分。肉の下味はどうするか。塩を使うと水が出過ぎるかもしれぬから、胡椒だけとする。あとは低温で、ゆっくり揚げれば済む。

 問題は出汁だ。思い出せない。とりあえず水2と酒1に、砂糖と顆粒出汁の素をヤマ勘で放り込んでひと煮立ち。料理本には味醂なんぞと書いてあることだろうが、使わなくなって久しい。その他の調味料で調整可能。醤油を差して、またひと煮立ち。
 今回は酢を強めに利かそうというのがテーマだし、根が甘党の舌だから、バランス上甘味も強くしたい。かといって砂糖に頼り過ぎると、喉がいがらっぽいような甘さになる恐れなしとしない。砂糖は半量にして、蜂蜜を使ってみた。
 で、酢だ。失敗の多いのはこゝである。手前から攻めていって、熱さを値引きしながら味見して、気持ち濃過ぎるところまで行く。冷ます段階で、角氷を三つ四つ放り込もうとの算段だ。
 柚子かレモンと申したきところなれど、私の暮しには贅沢というもの。生姜のみじん切りのほかに、チューブのおろし生姜も援軍。これぞ隠し味の七味唐辛子。ひと様にはお奨めしない。
 以前の味と比較はできぬが、まずまずのものができた。毎度思う。食べるのは、どうせ俺だ。

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 出汁の決心がついたら、野菜から順に揚げ始め。油を切ってから出汁に浸す。全体が冷めきらぬうちにラップ。こゝも肝のひとつだ。ラップは落しぶたなんぞより、よほど出汁が具材に染み込む。
 あとは粗熱が取れたら冷蔵庫行きだ。料理の先生がたは、ひと晩冷蔵庫で明日にはなんぞとおっしゃるが、もう少~し、丸一日寝かせるというのが、私の勝手な思い込みだ。明日の一献には、間に合う。

 ジジイにゃあ、明日が楽しみなんてことは、めったにあるもんじゃねえんだ。そこへゆくと……ざまぁ見やがれ。

不滅

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 とかく男と女というものは……。今想えば、そういう問題だったのかなぁ。

 『とべない沈黙』について、高校生だった私に与えた衝撃と影響は「深刻」だったなどと、いさゝか思わぜぶりだった。なんともはや、無責任な申しようだ。短兵急に云えば、人間関係って、ことに女と男って、根本的にうまく行かねえんだな、というようなことだったと思う。
 これは『とべない沈黙』の核心主題ではない。瞭らかに見当違いの感想だった。性欲との折合いや女性への憧れが日常生活の最大課題だった年齢の私が、映画の一部分に過剰反応してしまったに過ぎない。

 始まってすぐ、ある先行映画を連想した。モノクロ映像の美しさ(つまりは光と影の術)。構図とクローズアップのなまめかしさ(エロチシズム)。これはミケランジェロ・アントニオーニじゃないかな?
 篠田正浩大島渚吉田喜重ら松竹ヌーヴェルヴァーグと称されていた監督たちには、たしかにフランスのヌーヴェルヴァーグ作品のあれだったりこれだったりに通う匂いがあった。
 が、黒木和雄の(カメラ鈴木達夫の)画面は違った。記録映画出身の監督らしい、手持ちカメラで視点移動しながら対象を追掛ける画面や、とんでもなく遠くからの超ロングショットなど、イタリアのネオリアリズモ風も特徴だった。そしてアントニオーニ風の倦怠美とエロチシズム。

 なんであんなものを観たのだったか。おそらくはタイトルに惹かれて、わけも判らずに観たのだったろうが、中学の最後くらいに『太陽はひとりぼっち』を観た。これぞまさしく、男と女って……そのもの作品だった。強烈な印象だった。それが『とべない沈黙』感想にまで、尾を引いてしまったのかもしれない。
 それまではアメリカ青春映画を観ていた。伊東ゆかりさんや中尾ミエさんや弘田三枝子さんらが訳詞版で唄っているような、アメリカンポップスそのままの世界だ。だが、アメリカばっかり観ていたんじゃ駄目だ、ヨーロッパを観なければと、アントニオーニをきっかけに眼醒めた。その眼醒めと、プレスリーからビートルズへという時代の移行期が、重なっていたのだと思う。

 『太陽はひとりぼっち』一作で、私にとっての美男子(って言葉、今もあります?)の代表はアラン・ドロンとなった。しかしそれ以上に惹かれたモニカ・ヴィッチのほうは、大好きな女優とは、なぜか人前では口にしがたかった。
 VHS.もDVD.もない時代だから、公開済み作品を追掛けるには骨が折れた。どこの名画座でだったか、ようやく『情事』を観た。やがて『赤い砂漠』も公開された。モニカ・ヴィッチにどこか似たところのある、ひと口に申せば「憂鬱」の似合う女優さんばかりを、探して歩いた。そのことは親しい仲間にも内緒にした。
 ほどなく新劇の舞台を覗くようになっていったから、女優と云ったら倍賞千恵子でも浅丘ルリ子でも、岩下志麻でも吉永小百合でもなく、奈良岡朋子岩崎加根子と思っていた。

 フランソワーズ・サガンの小説が矢つぎばやに翻訳されて新潮文庫で出たが、どれも身に親しい世界のように感じた。アルベルト・モラヴィアの翻訳小説を最初に読んだのも、その頃だ。ついでに、ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』なんかも。
 惜しむらくは、なんの指針も持たぬ高校生の無手勝流ほっつき歩きの限界。もう一歩足を延ばして、アイリス・マードックマーガレット・ドラブルだとなっていたら、女性世界のなにがしかに、眼を開くことができていたかもしれない。あるいは時間を遡って、キャサリンマンスフィールドを読みこなせる高校生であったなら、文学の核心に、よほど早くから近づけていたかもしれない。哀しいかな、歩幅が足りなかった。
 その後じつにじつに、遠回りすることになる。

 さてアントニオーニだが、今でも好きだ。フェリーニより、ゴダールより、好きだ。大島渚より、黒木和雄が好きなのと一緒だ。では今村昌平は? う~ん、それはちょいと考えさせてくれ。
 モニカ・ヴィッチも、私の中では不滅である。マリリン・モンローより、ソフィア・ローレンより、好きだ。ではカトリーヌ・ドヌーヴは? う~ん、それもちょいと考えさせてくれ。

その日

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 こゝまで来たら、最後まで付合おうじゃねえか。なぁ、太郎!

 洗濯機を回すあいだに、八百屋よりも先に、まず時計屋に駆け込んだのにはわけがある。太郎(我が腕時計の名)の電池切れだ。時計屋のご主人には、毎度同じお願いのしかたをする。
 「俺同様、だいぶくたびれた奴でね。停まっちゃったんだけど、故障か寿命か電池切れかも、判らねえんだ。診てもらえませんか。電池切れだったら、交換してくださいな」

 十数年前までは、池袋西武の時計貴金属フロアで、交換していた。現役社会人として、池袋で足す用はいくらもあったから、百貨店はなにかと便利だった。高価な買物をする機会はなかったが、眼の保養というか一般常識というか、はたまた時代の空気を吸いにと申すべきか、店内をぶらぶらすることも嫌いではなかった。
 ある年のこと、電池交換を依頼したところ、当店ではこの時計に交換はできかねます、と応じられてしまった。暗に、もう買い換えろよと云われたわけだ。

 近所の時計屋に、恐るおそる持込んだところ、当り前のように交換してくださった。以来同じ店で交換している。
 「確かに年季入ってますねぇ。でも、機械は快調に動いてるようだなぁ」
 「ずいぶん前に、点検してもらっただけなんだけど……」
 「解りますよ。私らは、裏蓋を開けると判るんですよ。調整した証拠が残ってるからね。いつ頃、どういう店かまでね。ほら、歯医者さんが、患者さんの顔を視忘れたって、歯の治療跡を診たら自分が治療したかどうかが、判るそうじゃないですか。ま、似たようなもんでしょうかねえ」

 腕時計との付合いは、中学一年からだ。電車通学するには必要だろうというので、伯父がプレゼントしてくれた。皮ベルトや、当時世に出たばかりだったマジックベルトでベリッと剥すゴム製のベルトも真先に試みた。三年生のとき、粗相してガラスを割り機械も壊れた。
 次は黒い文字盤がいゝと親にねだったが、お前はヤクザかと却下され、紺色の文字盤になった。合宿地かどこかに置き忘れて紛失した。飽きが来たことも故障したこともあって、いくど代替りしても、時計と長い付合いにはならなかった。

 社会人となって、自分の給料で買った最初の(結果として唯一の)時計が、今の太郎だ。色気も見栄もあって、あれこれ候補を検討してはみたが、いざ自分で買う段となると、丈夫そうだとか飽きが来そうもないとか、無難な選択基準が前面にしゃしゃり出てきて、結局は当時のベストセラーから選んだ。唯一こだわったのは、アラビア数字であれギリシア数字であれ、文字盤に数字というものがいっさいない、という点だった。

 以来半世紀近く、出張だろうが旅行だろうが、晴れの場だろうが夜の巷だろうが、全裸になるとき以外は私とともにいる。就寝中もはめたまゝだ。
 「お気をつけください。ガラスが擦り減ってきていて、少し動きます。思わぬ拍子に外れることもありますから」
 「文字盤が少し黄ばんできてますがね、これは落ちませんですよ、なかなか」
 「当時、数が出ましたからねぇ。稀にはこういうのが出るんですよ。消耗品の数物から名品や国宝が出るのと同じでね」
 電池交換のたびに、いろいろなことを云われる。

 たいそう可愛がった自転車に名をつけるときも、次郎とせざるをえなかった。太郎の名はこいつ以外にはありえない。
 じつは昨年から今春にかけて、心底怖れていた問題があった。私が定年になると、こいつも停まるのではないか。昨日も、その疑念が一瞬頭をよぎった。惰性で半年余り動いてはきたが、いよいよ停まるか。その日が来たか。

 「十五分もしたら、またおいでください」
 ご主人は、なに食わぬ顔で、電池を交換してくださった。昨日まで中にいたガラの電池を、もらって帰って来た。