一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ナンですが

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 牡蠣だけではなく、同じ奥様からはホタテもいたゞいた。これほど型のいゝのは、これまた何十年ぶりかで手にする。貝殻のこの形には、独特の思い入れがある。

 中高六年一貫の男子校に入学して、まず選んだ部活は地質部だった。中は岩石班・鉱物班・古生物班に分れていて、合同活動は合宿旅行と文化祭のみ。日ごろはそれぞれ別サークルであるかのように活動していた。
 私は古生物班を選んだ。一番の愉しみは化石採集のフィールドワーク。ふだんは採集してきた化石を図鑑で調べ、種類や数を分類しては表やグラフにまとめて、生息当時の地形や環境を想像・再現する作業が主だった。
 中学一年生にとって高校三年生はずいぶん大人で、ほとんどのことは高校生の先輩から手ほどきを受けた。顧問の先生との接触は合宿のみと云ってよかった。

 化石採集のフィールドワークといっても、恐竜の時代やアンモナイトの時代の地層にまで探索の手を延ばすことは、中高生の部活では無理で、より新しい時代の地層から、貝殻の化石を採集することが中心だ。甲殻類や魚の骨でも出ようものなら、途方もないお宝だった。
 かつて海底だったが今は陸地となった場所で、運良く(?)崖崩れや造成のために地層が露呈している場所へと出掛けてゆく。そういう場所がどこにあるかについては、抜目なく情報を持っていた。

 近場でしょっちゅう出掛けられるのは、東武東上線の成増あたり。ただ今では賑やかな街に変貌して、かつての崖が今のどこなのやら見当もつかない。つまりは、かつての雑木林を伐り拓いたり、丘を崩して窪地を埋めたりしながら、造成地としてゆく途上の時代だったのだろう。
 もっとも魅力的だったのは、千葉県横田の崖だった。内房線で木更津へ。久留里線に乗換えて横田へ。中学生にとっては、けっこうな遠出である。横田駅からどちらの方角へどれほど歩いたのだったか、まったく記憶にない。田畑の中の道だった気がするのだが、かなり歩いて、高さ十数メートルもある、その崖に着いた。

 地表から数メートルの赤土は関東ローム層。古箱根・古富士の噴火による火山灰の堆積が土となったもので、生物の化石が出ることはない。それよりだいぶ下に白い地層が、横一文字に走っている。土が白いのではない。細かく砕けた貝殻が、敷き詰められたようにびっしり埋っているために、白く見えるのだ。
 とはいえカルシウムの粉に用はない。その白い地層から、無傷の形状を保った貝殻を探し出すのが狙いである。

 リュックを置いて、古新聞を広げる。ハンマーや刷毛を取出して、ベルトに挟む。ハンマーヘッドの片方は大工道具の金鎚と同じ。もう片方は獲物を疵付けずに周囲を掘るために平たくなっている。ただし釘抜きである必要はないから、切込みは入っていない。要するに、化石掘り専用のハンマーだ。良いハンマーを所持していることは、仲間へのちょいとした自慢にもなることだった。

 横田の地層からは、他ではまず出ることのないお宝が出る可能性があった。ペクテン・トウキョウインシス、スペルは知らない。ラテン語学名を、中学生はカタカナで憶えた。通称「東京ホタテ」と称び慣わされる、掌サイズに近い超大型のイタヤ貝である。
 無疵大型であればガラスケース陳列ものだが、まぁ望むべくもない。疵物中型か無疵小型がとりあえずの目標だ。が、ペクテン以外の貝殻も豊富に出るので、可能な限りの種類を集めたい。水深何メートル圏内に分布する貝かを図鑑で調べて、分類することで、当時の海底の様子を探るのだ。

 むろん他のあらゆる所行と同じく、私がペクテンを掘り当てることはなかった。そういう星の下の男である。だが、地質部はじつに面白かった。やり甲斐もあった。
 「なにやってんの! 家じゅう貝の粉だらけにしちゃって、馬鹿じゃないの?」
 母からは、再三どやしつけられたけれども。
 一年半はなんとかなったものゝ、二年生の最後に矛盾が煮詰まった。掛持ちで所属していたバスケットボール部でレギュラーとなり、練習も高度になり、きつくなり、忙しくなった。かなり迷った末に、地質部を退部した。

 もしバスケに熱中などしていなければ。もし中原中也木下順二も知らなければ。もしビートルズで満足してモダンジャズなんぞ聴いていなければ。もし解りもしないくせにドストエフスキーなんぞ読んだりしなければ。もし映画で満足して新劇など観るようになっていなければ。もし高校卒業まで地質部に所属し続けていたら。そっちの道へと進んでいたら。いくらかマシな、もっとまともな人生だったろうか?

 いやいや、それは己惚れというもの。我が気性を想えば、きっとこうだ。
 ――最近の研究者は、デジタルってんですか、知識・情報ばかり頭でっかちになっちまって、現場で化石掘るのがヘタクソでしょう。よろしいんでしょうかねぇ、それで。もっとも、一度も手柄など立てたことない私が、申すのもナンですが……。

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 ホタテですか? むろん美味しくいたゞきましたよ。拙宅ではバターと称んでおりますマーガリンでサッと熱を通しまして、酒と酢と蜂蜜を按配したソースを掛けましてね。
 ヒモはジジイの歯には硬いんで、塩揉みして乾燥させるつもりです。出汁くらいは取れましょうから。