一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

今さら

 駅前で、日本共産党都議会議員の演説があるというので、散歩がてら出掛けてみた。都議会での活動報告と、再来月に迫った選挙での支持要請が十五分。参議院議員による応援演説が十五分。〆て三十分の短い演説会だ。
 その十五分後には隣町のスーパー前での演説会。さらに一時間後にはターミナル駅周辺で。チラシによれば、今日四回の演説会が予定されているようだ。

 いずれの政党の演説会でも感じることだが、設営やビラ配りにたち働いている運動員さんたちや、熱心そうに耳を傾けている聴衆の、高齢化が著しい。今日だって、おそらく議員ご本人が一番若い。
 若い人は暇じゃないのだというのであれば、今日は日曜日である。この情勢下に、若者は私鉄沿線駅前を通りかかったりしないかというと、そうでもない。三十分のあいだにカップルや家族づれも通りかかったが、どれどれと足を停めてみる人はなかった。
 働き盛りの中年・壮年や、学生世代の若者が、地元地方行政に無関心かといえば、そんなことはありえまい。
 ならばこうか。議会での論点や各政党の主張など、検索すればいとも容易に読める。議員本人の声が聴きたければ、配信動画も出てくる。駅前にたむろするのは、動画配信に馴染まない人たち、スマホ・パソコン操作不得手な人たちということだろうか。
 うーむ、それもないとは云えぬ気もするが……。

 私にとって、動画視聴と演説に立合うこととは、まったく別の行動である。実物をしかと我が眼にすることを、重要視している。ただ今の世の中にあってこれが偏見であり、迷妄にすら近いとは承知している。が、培ってきた思考方法を変える気はない。我が眼にしかと視たうえで判断を間違えた場合は、諦めもつく。実際まことに数多く間違えてきたのだけれども。

 都議会議員の演説内容には触れない。このブログでは、現今の政に言及しない方針である。というよりしがない隠居の身、解らないことが多過ぎる。へたに口出しすれば、ひと様にご迷惑、というほどの身ではないが、おやかましかろう。
 ならばお前は歴史をどう捉えるのだと問われれば、依然としてヘロドトスvs.ツキディデスの問題であり、『愚管抄』と『読史余論』の比較問題である。政治・軍事かまびすしき時代に文化意識をいかに防衛するのかと問われれば、大伴家持の聡明さや、西行の決断力や、世阿弥元清の捨て身から学ぶほかはあるまい。
 とは申せ、今さら面倒臭くはある。