一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

やり甲斐



 小雨もよいの肌寒さすら感じた昨日からは一転、雲を探すほどの好天となった。金剛院さま墓地へと月詣りである。

 母命日は六日、父命日は別月の二十六日。いつしか墓参りは六の日、という習慣になった。昨日が父の月命日だったが、ふらっと出掛ける気になれる日和ではなく、尻ごみして今日になった。
 午前十時を回ったのに、花長さんの店が開かない。葦簀を立て回して綱で縛られたままだ。今どき葦簀を立て回した店も珍しいが、駅前にかような店があってくれることを、わが町の美点のひとつと感じてきた。
 大将もおかみさんも私より兄さん姉さんだし、そういえばここ何回か、大将のご尊顔を拝していない。月一かひと月おきにお邪魔していると考えると、もう半年近く、お姿を視ていないのではないか。少し心配だ。
 すずらん通りまで戻って、北村生花店にて花を求める。

 金剛院さま境内では、躑躅と石楠花が盛りだ。あれこれ百花繚乱の春が過ぎて、落着いた風情が漂う。牡丹も花菖蒲も用意万端に葉を伸ばしてきてはいるが、花にはまだ遠い。
 庫裡へご挨拶し線香をお下げいただく。少し気が早いが、七月へ入ってすぐの施餓鬼会には、本年もお世話になりたいと、お願い申しあげておく。
 つねの手順で済ます。ゆかり在るかたのご墓所を、つねの順路にて詣り歩く。水桶をお返しして、ご本堂と大師堂とミニ四国遍路銅像、無縁仏合祀観音と六地蔵と旧石仏集合塚。


 幕末から明治の時代、近在の村落形成にともなって、耕地整理や道筋改変が目覚ましく進んだものであろう。道端の石地蔵や道祖神などが何十体も撤去され、金剛院さまへと参集した。それらがふたつの塚となって、今も集合されてある。光背に年号が彫り刻まれてあるものが多く、擦り減って読みづらい文字を辿ると、同じ年の仏は一体もない。野末の石仏が大集合したこの塚山が、私は好きである。
 塚の背景はご本堂の側面にあたる。ごく近景に近景にやや近景、やや中景に中景、やや遠景に遠景にごく遠景。人の記憶のようだ。この世のようでもある。

 先日「爆笑問題の日曜サンデー」のゲストに沢木耕太郎さんが出演した。新刊『天路の旅人』が好評につきとの話題性だろう。また『深夜特急』を斎藤工さんが朗読するラジオ番組がスタートするそうで、その話題性でもあるのだろう。斎藤工さんなら、私でも知っている。どことなく好きな俳優さんだ。
 名にしおう爆笑問題の番組だ。噺はあちこちに散らかる。太田光さんが沢木耕太郎さんの旧作を引合いに、独自の感慨を語り始めた。『テロルの決算』についてだ。

 日本社会党委員長だった浅沼稲次郎が、日比谷野外音楽堂での演説中に、十七歳の山口二矢に刺殺された、テロリズム事件が起きた。一九六〇年のことだ。沢木耕太郎さんの『テロルの決算』は一九七八年刊行。浅沼の側からと山口の側からとをカットバックしながら、二元中継のように描いたノンフィクションの傑作で、当時大変な人気を博した。
 「米帝国主義は日中共同の敵」との名演説を残した浅沼と、命に換えても日本の赤化を阻止せねばならぬと思い詰めた山口。それぞれに本気だった。にもかかわらず、二人の本気を嘲うかのように時は流れ、その後の日本は進んできた。「なんとも虚しい想いがしてならない」と、太田光さんは感慨を隠さない。

 同感ではありますけれどね、太田さん。歴史はつねにさようなのですよ。それを云い出したら、吉田松陰はどうなります? 西郷隆盛大久保利通はどうなります? 結果として松下村塾では目立たぬ塾生だった、そして西郷や大久保の眼からは取るに足らぬ小物とすら見えていた、伊藤博文が宰相となったのですよ。
 「歴史というものは、激しく時代に関わった若者を否定しながら実現し、進行してゆく。」歴史劇の名作をいくつも書いた木下順二による、有名なテーゼです。
 さようコメントしたかった。太田光さんは、みずから激しく時代と関わった手応えも自負もおありなのだろう。さればこその感慨なのだろう。

 花を挿し、線香を供え、墓石に水をかけ、さて合掌というとき、さっそく嗅ぎつけたと見え、いずこからか羽虫が翔んで来た。菊のツボミがえらくお気に召したらしく、他の花へと移動する気配がない。
 それは切花で、根もなく、土につながってもいないぜ。蜜の香りも水気も、ほんのいっときのことだぜ。いつまでも続くわけじゃないぜ。
 虫に云ってやりたい気になる。だが彼(彼女か、知らんけど)にとっては、意欲満々で取組む甲斐のある対象なのだろう。