統一地方選挙の結果が判明したようである。感想なんぞ、ましてや所見など述べる分際ではない。ただ、私は投票行動を誤ったかもしれない。
わが町ではいつの選挙でも投票所となる区立小学校へと、正午少し過ぎに出向く。朝早くに赴きたかったが、これでも起床後まずもって、つまり朝食前に出かけたのだ。
区議会議員選挙については、考えがまとまっていて、投票に迷いはなかった。問題は豊島区長選挙のほうである。存じあげる候補者が一人もない。世間の狭い私には、非公式な(つまり生なましい手づかみの)情報がなにも入ってこない。
六期二十数年間務められた高野之夫区長が、この二月に他界された。すなわち今回の区長選は、現職不在の全員新顔選挙である。
高野前区長は、今回の疫病に感染なさったそうだ。区長の前は都議会議員、その前は区議会議員だった。が、その前もともとは、池袋で老舗の古本屋「高野書店」の親父さんである。
本店も有名古書店だったが、池袋西口にあって本のデパートと異名をとった芳林堂書店本店の最上階を占めた、支店のほうを記憶する年配者が多かろう。
ご先代からの商売で、ご本人は戦時疎開期を別にすれば中学・高校・大学いずれも立教ご出身という、池袋ひと筋のかただった。
政策いちいちについての甲論乙駁は措くとして、要するに高野区長を支持するか異を唱えるかが、ここしばらくの豊島区長選だった。ところが今回は、事情に暗い私には、いかに判断いたしようもない選挙となってしまった。
杉並区住民にしてフリーのルポライター、畠山理仁(みちよし)さんのように、訪問・追跡・待伏せほかあらゆる手立てを尽して、いかに限られた時間であろうとも、投票日前に候補者全員から面会取材するという、見上げた心構えやノウハウを、遺憾ながら私は持ってない。
となると、選挙ポスターや新聞投込みチラシの立候補者一覧表など、ごく頼りない情報から判断するほかない。そんなところには、どうせ善いことしか書かないのだから、手前味噌の自己紹介に決っている。
投票所である小学校体育館の外面大壁に設けられた、ポスター掲示板の前にしばらく立って、改めてあれこれ考えた。そんなことしたところで、好ましい知恵が湧くはずもない。一応の暫定的決断をしたとはいえ、自分ながら納得が行かぬ気持のままに、投票所へ入場した。
区議会議員選挙投票は予定どおりに済ませた。区長選挙の投票券には「わかりません」と書いて投票した。その時の、正直な気持だった。それも意思表示のつもりだった。が、早くも投票所を出るころには、誤った投票行動ではなかったかとの疑問が湧いてきた。
投票券には候補者名以外を記入してはならぬ規定だろうから、私の一票は不正投票とまではされぬまでも、無効投票扱いとなろう。選挙結果の分類統計上では、せいぜいが「棄権」票となるほかあるまい。が、私は棄権したつもりはない。今後も棄権する気はない。いまだ決心に至らざる段階につき「保留」したつもりである。
ならばなにも記入せずに投票すべきだったか。いや、おそらくは白票も「棄権」扱いとされたことだろう。
遠い過去の記憶だが、即時全学バリケード・ストライキに突入するか時期尚早と視るか、自治会執行部と反自治会セクトとの、天下分け目の学生大会でも、選択肢は自治会執行部提出議案に対して、賛成・反対・保留・棄権の四択だった。
ところが国政選挙においても地方選挙においても、当選者を決めることだけが目的で、おそらくは次点候補者と最下位候補者との違いなども、当事者以外の興味を惹かないのだろう。ましてや保留と棄権の相違など、考慮されるはずもない。
棄権する気はさらさらないが、決断をくだす情報資料に欠けているがゆえに「保留」という意思を、いかように表明すべきであるか。
毎度のお決りごとながら、今後しばらくは選挙結果を検討して、各政党・各組織ともが、手前勝手な分析所見を発表することだろう。勝った陣営は、わが主張の正しさが評価されたと、負けた陣営は、有権者にご理解願う方法に手違いがあったと。みずからの主張に誤りもしくは無理があったとは、どなたもおっしゃらない。
投票率や投票行動の特色や傾向をあれこれ参照しながら、無党派層がとか、若年層がとか、無関心派がとか、身勝手にこじつけられることだろう。けれども「保留」の意思を積極的に示した者と「棄権」の意思を積極的に示した者と、さらには積極的に意思表示することすら馬鹿らしく感じて無投票の態度をとった者との相違すら、把握されることはあるまい。
投票券に言葉の代行などできるはずもあるまい。一方で、投票券は民主主義の根柢だと諭されれば、さように相違ないという気もする。ということは、言葉は「民主主義」なるものの外側をも表現する手段だということか。そんな大仰な噺をしようとしたんじゃない。判らないことを「わかりません」と云いたかっただけなのに。