一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

これぞ

 二日続いた寝不足を解消すべく、たっぷり八時間寝た。躰が戻った。起きぬけの一服が美味い。この味で体調が判る。時には精神状態まで。
 昨日は、齢若い友人代表たちが寄合ってくれて、打合せと軽く宅飲み。身寄りのない私を気遣ってくださり、これからの活動に関して、あれこれ知恵を出し合ってくれたのだ。まことにまことに、ありがたい。
 晩年というものは、意地を張りとおすと、はた迷惑になる。かといって旗幟鮮明にするを渋ると、かえって周囲に余計な気を遣わせてしまう。加減が微妙だ。

 正宗白鳥に『懐疑と信仰』という、晩年の思索と心境が窺える、興味深いエッセイ集がある。白鳥ならではの、あけすけで飾らぬと云うか、身も蓋もない物言いが際立つ。ある意味索然たる印象の一冊と称んでもいゝものだが、そこが面白い。

 白鳥は若き日、有名な植村正久牧師の導きによって、洗礼を受けた。が、後年信仰に疑問が生じて、棄教した。
 その時代の青年にとってキリスト教は、後のある時代のマルクス主義や、さらに後のある時代のアヴァンギャルド芸術思想と同じく、ものごとを突詰めて考える道具だった。明治・大正期を扱う文学史や伝記において、キリスト教は頻繁に登場するが、すべてがすべてに、ゴリゴリの原理主義信仰者を思い浮べる必要はない。
 けれども白鳥の場合は、受洗から棄教にいたる経験は、ことのほか深刻だったようで、ほとんどの読者には察するよしもなかったものの、生涯にわたる真剣な思索課題だったようだ。臨終の床にあって白鳥は、植村環牧師(正久牧師の娘、日本で二人目の女性牧師)を枕辺に、こんな私でもキリスト様は見捨てない、すべてをお委ねします、アーメン、と信仰告白して、逝った。

 物議をかもした。論理的知性からいったんは棄教したものの、やはり白鳥は信仰者だったのだ。いや、ボケ老人の妄言だろう。いや、死を目前にして気の弱くなった白鳥の、藁をも掴みたい懇願だろう。さまざまな感想・解釈が、世間を飛び交ったものだ。

 で、『懐疑と信仰』だが、古今東西の古典と近代文学を読み破った観のある白鳥だから、言及対象いろいろではあるが、要するに。
 とある章で、ことほどさように人間とは世間とは、救いがたいもので、そこへもってきて信仰なんて頼りにならず、信じるに足りぬものだ、と結論する。次の章では、しかし人間とは寄る辺なきもので、ことほどさように、なにかにすがらねば生きてはいられぬものだ、との結論になる。ところがその次の章ではまたぞろ、とはいえ人間も世間も、しょうもないもので、となり、さらに次の章では、ところが人間は弱くだらしないもので、なにかにすがらねば云々。噺はいろいろに変化しても、核心部分は往ったり来たりの繰返しで、先へ進まない。
 さては、さんざん読者を経めぐらせた揚句に、ど~んと結論が来るのかとの期待も湧いて読み進むのだが、ついについに、末尾まで行きつ戻りつ、逡巡して了る。

 拍子抜けする読者もあろう。期待外れの怒りを覚える読者もあろう。
 明治期の自然主義文学論の応酬のなかで、「無理想無解決」という流行語があったようだが、この場合は、求理想無解決である。
 隔靴掻痒の感を抱かれるかたも多かろうが、長年この文豪を注視してきた身からすると、これぞ正宗白鳥なのである。