一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ありがた迷惑

徳富蘇峰(1863 - 1957)

 徳富猪一郎少年(以下蘇峰)は熊本洋学校へ二度入学している。

 藩校時習館はあまりに古臭い訓詁の学に滞った、学校党の巣窟だった。徳富家は横井小楠を学祖と仰ぐ実学党の家だ。父一敬は、小楠暗殺(明治2年)されて以後の、熊本における実学党有力者にして、県庁を切り回す数人のうちの一人だった。
 この師ならばという漢学者・儒者の塾へ、蘇峰は通った。道のりが遠いというので、師の家の住込み内弟子だった時期もある。

 実学党とは、端的に申せば和魂洋才の学派である。小楠みずからも、フルベッキの伝手を頼みに、二人の甥をアメリカへ渡航させ、海軍兵学校に学ばせようとした。伯父の意向に反して、渡米した兄弟は軍事よりも法律や政治に興味を抱き、そちらを勉強してしまった。帰国後、洋学校設立にはおおいに役立った。
 中央政府から派遣の県令はまだ来ておらず、旧藩主細川護久が知事だった。県庁の要職は実学党が独占していた。洋学校と医学校(および病院)を設立した。細川公も私費を投じた。医学校からは北里柴三郎が出るが、それはまた別の噺として。

 洋学校では、英語と自然科学(とくに農業)と軍事を学ばせたいのが実学党の本音だったろう。破格の高額サラリーが約束された。それでも人選に手間取るアメリカがわへの、熊本がわからの注文は、できれば軍人を派遣して欲しいというものだった。
 難航したあげくにジェーンズが来日した。南北戦争に陸軍砲兵隊の士官として従軍した退役大尉だった。しかしそれ以上に、熱心かつ敬虔なプロテスタントだった。だが契約条項の中には、けっして布教活動および宗教教育をしてはならないとの一項があった。「洋才」教育が委嘱されたのであって、「和魂」には指一本触れてはならぬとの条件だった。双方を切り離せると、実学党は考えていたのだろう。

 私塾三校を渡り歩いた蘇峰は、師たちからこれ以上学ぶことに限界を感じはじめていた。実学党の父から洋学校を奨められた。
 漢文読解にも読書力にもようやく自信がつきかけていた蘇峰は、気乗りがしなかった。新しいものに飛びつく性格ではない。ガキ大将気質ではあるが内弁慶で、どちらかと云えば人見知りだ。ただし粘り強い意地っぱりで、気持が固まれば独りでも頑張る性質だ。気乗りせずとも、これからの時代は英語と西洋新知識だと説得されれば、理解できた。十歳での入学だった。学内で最年少だった。

 ジェーンズはまったく日本語を解さなかった。数学も、地理歴史も、物理も農業技術も、すべて英語による講義だったから、蘇峰にはチンプンカンプンだった。教場のマナー管理は軍隊風で、寮から教場へ移動したからには私語厳禁だった。退屈に耐えられぬ蘇峰少年は、ジェーンズからしばしばきつく叱責された。
 見どころなしと判定されたものは、容赦なく退学するよう勧告された。同時に入学した従兄も退学していった。ある日、ジェーンズから両親あての手紙を託された。とうとう自分にも来たか。両親が開封すると文面は、まだ幼な過ぎるから適正年齢になったら再入学するがよかろうとの趣旨だった。
 洋学校なんぞに、二度と入学してやるもんかと、蘇峰は固く心に誓ったという。

 もとの塾へ戻るのも面白くない。親戚筋の漢学者から素読を受けたり、蔵書家から書籍を借り出したり、算術を習ったりしつつ、数年を過ごした。漢訳の新約・旧約聖書も読んだ。『論語』『大学』より遥かに面白い。考えかたに可能性がありそうだった。
 洋学校へ再度入学した。十四歳になっていた。ジェーンズの噺はあい変らずさっぱり解らなかった。だが意向を受けて通訳してくれる、上級生横井時雄や金森通倫の言葉はいちいちもっともで、深く共感できた。
 横井時雄は小楠の息子。後年は牧師にしてジャーナリスト、衆議院議員を経て同志社の総長となった。金森通倫は、後年は異色の牧師にして、隠居してからは仙人のごとき洞窟生活をした。現自由民主党石破茂さんの曽祖父である。

 一度目の入学時から数年で、時代は急速に動いていた。中央政府から派遣された県令安岡良亮が乗込んできた。旧土佐藩士だ。県庁からも主要役所からも、実学党は一掃された。学校党が息を吹き返した。神憑り的に国学を奉じる敬神党(神風連とも称ばれた)はますます獰猛な攘夷論者となって、あたりを闊歩した。
 新県令や学校党は、洋学校や医学校を眼の仇にした。期限付き契約で来日していたジェーンズの任期が切れれば、跡を日本人教官が継ぐとの運びにはなりにくく、早晩閉鎖の憂き目にあうこと必定の形成だったろう。洋学校生も学校党も敬神党も、先鋭化していった。


 明治九年一月三十日、市内花岡山の頂上に三十五名の洋学校生が集り、代表が奉教趣意書を高らかに読み上げ、全員が署名した。プロテスタントキリスト教への改宗を宣言し、キリスト教思想と西洋的合理精神をもって日本近代化を推進しようと誓い合った。事実上の熊本バンド結成だ。徳富蘇峰の名も、その中にある。
 実学党の中心人物たち(たとえば父親たち)は激怒した。息子たちを邸内に閉じこめ監視して、翌日以降通学させまいとした。仲間にも会わせまいとした。「洋才」を活用するはずが「和魂」まで失いそうな危うい若者たちと見えたことだろう。『蘇峰自伝』(中央公論社、1935)は記す。
 「実学連の諸先生からすれば、仏を頼んで地獄に入るとは、この事であらう。」
  情理を尽した身内の説得により、脱落者も出た。
 市中には、売国奴は斬捨てると息巻いて、大小差して眼の色を変えた敬神党が徘徊していた。廃刀令を引鉄としてこの年のうちに、神風連の乱と称ばれる盲目的な武装蜂起を引きおこすことになる連中だ。その乱で安岡県令も斬られた。


 趣意書に蘇峰の名はたしかに残っている。だが『自伝』は云う。
 最年少の蘇峰と花岡山の首謀者たちとでは、六歳も七歳も違う。蘇峰には事前の相談も報せもなかった。ただ陣笠(ヒラの足軽)の一人として付き従っただけだった。『論語』より『聖書』が面白いと思い、西洋に興味が湧いてはいたが、改宗する気などはなかった。
 後年まで彼の名が残ったのは、脱落するものらが出てきたので、そんなら意地でも残ってやろうと貫いたまでだ。
 意地っぱりでアマノジャクな性格から、名が残っただけのことらしい。志は依然として新聞記者にあって、牧師だの宗教家だのになるつもりなんぞこれっぽっちもなかった。よほど信仰心が厚かったのだろうと推測されるのは、ありがた迷惑だ、とまで書いてある。