一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

味わい

 『細雪』の雑誌連載が始まったとき、宇野浩二がさっそくの感想を書いた。
 どうやら谷崎さん、とんでもないことを始めたぞ。こいつはそう簡単に終りそうもない、という感想だった。舞台設定、人物配置、文体と描きっぷり、どこから視ても、短篇・中篇でまとまりをつける遣り口ではない。達人よく達人を知るが故の、直観だったろう。

 宇野の慧眼どおり、悠揚迫らざる筆致による構想遠大な作品だったわけだが、時は戦時下、あまりに時局にそぐわぬ作品だと、ほどなく権力からの横槍が入った。自粛要請という名目で、事実上の発禁である。
 ところが谷崎潤一郎は、その後も発表媒体のない作品を、孜々として書き続けた。戦争などいずれ終ると、考えていたのだろうか。それとも、発表できようができまいが、この作品を書くことが天命だとでも、考えていたのだろうか。

 今日の眼で振返れば、何年かの辛抱だなどと、気楽な物言いができよう。だが、このさき日本が日本であり続けられるか、日本人に、はたまた日本語と日本文化に、将来はあるかと、メディアは連日大真面目に檄を飛ばしていた。巷には、もし戦争に負けることにでもなれば、女はことごとく強姦され、男はキンタマ抜かれるなどと、力説する輩もあったという。
 そんななかで、『細雪』がひそかに書き継がれたのは、並大抵のことではない。作品が国民の前に姿を現したのは、敗戦後、単行本として刊行されるにいたってである。

 戦時下の空気にあって、権力からの横槍で中断された作品にもう一篇、徳田秋聲『縮圖』がある。こちらも物語の骨格全体を勝手に想像してみると、噺はまだ始まったばかりだ。しかるに今日活字で読めば、その枚数はゆうに長篇小説に匹敵する。
 秋聲は、連載中断後にも、その先をひそかに書いたとは、されていない。人柄を勝手に想像してみても、書いたはずはないと思われる。また秋聲は戦時中に歿してしまったから、敗戦後に気を取直して書き継ぐということもありえなかった。

 で、思い出したのが、正宗白鳥晩年のインタビューだ。長い長い文壇歳月、消えることも途切れることもなく活躍してきた秘訣はと問われて、つねに注文があったからだ、と応えている。
 ――自分のような、筆に色気も艶もない、面白い噺など書けぬ者に、なんでかなあ。考えてみると不思議だ。
 新聞社の社員として、劇評を書いた。書ける奴だとなって文芸批評を書いた。やがて書いて食うとなれば、批評の稿料はあまりに安いから、小説を書いた。で、自然主義文学の小説家の一人と称ばれた。途切れずに注文が来たから、小説も批評も書き続けた。六十年ほど。

 敗戦直後、活字に飢えた読者たちに向けて、時ならぬ出版ブーム到来。雨後の竹の子のごとくに、新雑誌が乱立した。往々にしてコンセプトはエロ・グロ・ナンセンス。瞬く間に姿を消してゆく雑誌も多く、カストリ雑誌などと揶揄された。当時不純物の多い粗悪なカストリ焼酎が巷間に出回り、一合飲むと熱っぽく上気し、二合飲むと呼吸が苦しくなり、三合飲むと眼がつぶれると云われた。で、三号でツブレルような雑誌を、カストリ雑誌と評したわけだ。
 書き盛りの男はだいぶ死んだし、まだ外地から復員していない者も多い。かといって、まさかあの白鳥が、書いてくれるはずもあるまい。恐るおそる切出してみると、「稿料は払うのかい。だったら書くよ」
 もちろん今日の『正宗白鳥全集』に収録されているはずがない。

 徳田秋聲正宗白鳥も文士だ。職人、芸人、と云うに近い。芸術家谷崎潤一郎とは、少々味わいが異なる。