一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

眼玉

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『地べたっこさま』(理論社、1972)

 沖縄返還五十年、ということは日中国交正常化からも、あさま山荘事件からも五十年ということだ。が、私には忘れがたき一九七二年が、もう一つある。

 大学正門の正面は小高い丘で、斜面をおゝって一面の桜が咲き、上には八幡神社の境内がひらけている。その年の桜は、ことのほか華やかだった。そう見えた。
 正門はいわば谷にあり、手前も校舎までは緩い登坂である。大学ノートを両腕で胸に抱いた、新入生らしき女子たちが、坂を登ってくる。笑顔で。遠景は爛漫の崖。
 入学四年目にして初めて眼にする、桃源郷のような学園風景に、私は坂の上で言葉を失っていた。

 昨年の今ごろ、この坂をまっすぐ登ることなどできなかった。道の両側だけでは収まり切れぬ立看板が、坂道へあふれ出し、我れ先にと道を塞ぐように立ちはだかり、学生はそれらから身をかわすようにして、ジグザグに登るしかなかったのだ。一昨年も、その前の春も。
 明らかに、時代は変った。渦中にある私には、まだ十分には理解及ばず、半信半疑だったけれども。

 そんな年に、さねとうあきら(実藤述)『地べたっこさま』は刊行された。「創作民話」と分類される、昔噺の体裁をとった創作児童小説の連作短篇集だ。
 初々しい新人作家の登場などではない。百戦錬磨の剛腕作家が、いきなり登場した感じの事件だった。
 それもそのはず作者さねとうさんは、それまで児童小説作家でこそなかったものの、『森は生きている』連続上演で有名な劇団仲間の文芸演出部に長く所属して、児童演劇の台本を多数書き、演出助手も手掛けてきた。現場で子ども観客・読者を、いやというほど相手にしてきていた。
 その作品は、「児童」という冠をはずして、文学一般の問題として鑑賞・批評されるべきものだった。

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 ――河童は悪いやつじゃない。子どもたちと遊びたくて、いつも沼の水面から眼玉だけ出して待っていた。けれど大人も子どもたちも、気味悪がって近づいて来てくれない。あるとき、見知らぬ大人がやって来た。
 「おい、河童どん」妙に馴れなれしい。「おらの背中に、甲羅はまだあるかね?」片肌脱いで見せた背中はツルッとした、人間の背中だ。
 「我慢の甲斐があった。おらぁ向うの沼の河童だが、苦しい甲羅干しを何日も我慢して、ついに甲羅を溶かしちまって、人間になった」
 気の好い河童は、手もなく騙された。人間になりたくて、岩の上に腹這いになり、何日も甲羅干しを続けた。眼が回った。気が遠くなった。でも頑張った。

 ――男はお城出入りの毛皮商人だった。「毛皮はもう飽きた。なにか珍しいものはないか?」殿様の注文につい「河童の甲羅なんぞは」と出まかせを口走ってしまった。「それは妙案。河童の甲羅を手に入れるまで、出入りまかりならん」
 で、この沼へとやって来たのだった。

 ――もうくたばったか。岩の上では、すっかりしなびた河童が眼を閉じている。しめしめ。近づくと、キョロッと眼が開いて、「どうだね兄弟、おらの甲羅、溶けただかね?」
 腰を抜かしながら、「もうすぐだ、もうすぐだ」「そうかね、もうすぐかね」
 男も引くに引けない。殿様との約束がある。河童の様子を、遠くから視張ることにした。
 やがて河童の躰はほどんど溶けて、岩の上に染みが残るだけになった。吹きくる風に、乾燥して小さくなった河童の頭が、ころころと転がって、ぽちゃんと沼へ落ちた。岩の上には、甲羅だけが置かれてある。男はにんまりして、岩に近づき、甲羅を持上げた。
 と、岩の窪みに嵌り込んでいた眼玉がキョロッと開いて、「おらの、甲羅、なく、なった、かね?」死神のような声だった。
 ギャーッと叫んだ拍子に足を滑らせ、沼に落ちた男は、甲羅を抱いたまゝ沈んでいった。

 ――岩には社ができた。祭ともなると、天狗のお面を被ったり風車を持ったりした子どもたちがたくさんやって来る。子どもたちの姿が見えると、岩に嵌り込んだ二つの眼玉は、嬉しげに笑うそうだ。

 連作七篇とエピローグからなる短篇集『地べたっこさま』。冒頭の「かっぱのめだま」だ。人間の身勝手な傲慢にくだされる、大地による鉄槌という点では、先行作も先達作家も、あるにはある。
 だが、さねとうさんが他を圧して独特なのは、必ずしも子どもらを無垢な善玉としては描かぬ点だ。多くの児童文学作家たちが、子どもに(じつは保護者に)媚びて本を売ってきた現実を、鋭く突いた。さねとうさんの作品は、文学者仲間からは高く評価されたにも拘らず、推薦図書や課題図書に選ばれない。めったに重版もされない。

 子どもは可愛いもの、汚れなく無垢なもの。嘘っぱちだろう、それは。我が子が可愛いということとは、別の問題だ。
 その後この異色の児童文学作家は、のべつまくなしどこかと、誰かと闘い続ける生涯を送ることとなる。始まりは、一九七二年だった。