一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

無駄使い

アニー・エルノー『シンプルな情熱』(ハヤカワepi文庫、2002)

 外出すると、つい無駄使いが生じる。無収入の老人は、家でじっとしているに限る。

 百貨店での歳暮手配が目的だった。だのにロフトに寄って、来年の手帖を買った。年賀状に捺そうかと「卯」の字のゴム印なんぞも、つい買ってしまった。よしゃあいゝのに三省堂にまで寄った。今年のノーベル文学賞はフランスの女性作家と聴いていたので、つい眼が行った。
 私は、すでに盛りを過ぎて久しい「近代文学」の約束事のなかでしか考えられぬ守旧派の一人に過ぎない。それでいて新しい文学の出現に期待している。私の理解及ばぬ新しさに触れてみたい。そんなもんが実際に出てきたら、とうてい解るはずもなく、悪態つくのがせいぜいに違いないと承知していてもだ。

 『シンプルな情熱』は不倫性愛小説だ。離婚経験があるらしい、今は独り暮しの中年女性教師が、東欧のどこかの国から赴任してきた、外交官らしき既婚男性にメロメロになる噺だ。忙しい男で、やって来れば服を脱ぐ。シャワーとベッドが済めば服を着る。それでも次の電話までの日々、女は仕事もなにも上の空で、突然電話が鳴って男がやって来るのを待っているだけの日々を過す。なにを視ても聴いても、男と結び付けてしか考えられない。
 官能小説ではない。ポルノグラフィを期待するとアテが外れる。女性心理のとろけ具合が追求される。上の空の彼女の眼に、周囲が世の中がいかに見えてしまうかが、自嘲や大胆な独断を混じえて、あけすけに描かれる。乾燥した描写で、いくらか観念的でもある。あゝフランス小説だなぁと思わせる。

 キーワードは「パッション」で、主人公二ヤイコール作者の思考は、のべつこの語を軸に、またこの語の周辺を徘徊する。翻訳者は文脈を嗅ぎ分けながら苦労して、「恋」「情熱」「執着」「性愛」「激しい恋」などと訳し分け、それぞれに「パッション」とルビを振っている。長くもない小説にこれほど「パッション」が頻出するのは異様で、それを単一訳語で押し通そうものなら、たんなる下手糞な描写となってしまうだろう。
 想像するに、日本語文より端的で乾燥した手触りの強いフランス語文のなかで、このキーワードは理知的で象徴性を帯びた言葉として、作品内に響き渡るのだろう。

 女は制御しがたい自分の感情に翻弄されながらも、パッションの正体に少しづつにじり寄ってゆく。やがて男は帰国してゆく。唐突に棒杭を引っこ抜いたような別れだ。空虚感を紛らわすために、彼女は旅に出たり、仕事に精出したり、過去を熱心に想い出したりする。男との日々を文章に書こうともし始める。
 ――ものを書く行為は、性行為のシーンから受けるこの感じ、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向うべきなのだろう(一部勝手に略してます。)

 これは作者の小説観だ。文学論である。どんな業務があったものか、忘れたころになって、ふいに男がやってくる。以前のように情交がある。一度きりで、短期滞在の男はすぐに帰国してしまう。「俺のことは、本に書かないでくれよ」と云い残して。
 ――でも私が書いたのは、彼についての本ではない。自分についての本でさえない。
 彼がそれほど値打ちある男かどうかは別問題。彼女が夢中になった理由なんぞも別問題。文章は人生に対応してはいるが、無縁であり別次元だ。とある「関係」があった。それは人生への贈り物であって、文章はそれへの返礼に過ぎない……と作品は終る。
 男との情交と較べて遜色ない水準の、情熱と恍惚感(いずれもパッション)をもって書きえたか、その結果は彼女の手応えのうちにのみあって、余人の計り知るところではない。たゞこの作家は、さような志で書きたいと云っている。

 う~ん、性愛を乾燥させて、理知的に描くこの感じねぇ。富岡多恵子さん、稲葉真弓さん、山田詠美さん、小川洋子さん、まだまだ他にも。日本にも巧い女性作家、いらっしゃいますけどねぇ。
 『シンプルな情熱』一篇ではこの作家の存念のほどは、しかとは掴みきれない。だが自分の性欲を材料にしたのはこれが最初で、その前に父親を描いた作品も母親を描いた作品も、また自分の過去を描いた作品もあるそうだ。
 面倒臭えなぁ。それに私なんぞが、今さら存念を掴み得たところでねぇ、無駄使いでしょうに。

 池袋駅の乗換え地下道で、コインロッカー脇の目立たぬ場所にこっそり立つ、ミニフィギュアの自販機が、以前から前を通るたびに気に掛っていた。立ち停まって見本ウィンドウをしげしげと眺めたこともある。とうとう買っちゃった。
 「美脚ザメ」三百円。これぞ胸張って、堂々たる無駄使いだ。

 玄人っぽいこと付足して恐縮だけれども、『シンプルな情熱』の翻訳刊行は一九九三年らしいが、文庫版初版は二〇〇二年とある。私が手にしたのは二〇二二年十月刊の第四刷である。作者がノーベル文学賞を受賞したというので、超特急で重版したものだろうか。本文紙も表紙回りも、逆目である。開きは重いし、表紙は読者の手元ですぐに反り返ってくる。十年も経てば製本が弛むか本に歪みが来るか、悪くすればノドが壊れるかもしれない。
 いっときの流行に過ぎず、それほどもたなくてもよろしい本なのだろうか。一円でも節約せねばならぬ零細出版社ならともかく、天下の早川書房制作部ともあろうもんが、用紙発注なり取り都合なり、これでよろしいのだろうか。本を長もちさせるのは、べつだん無駄使いではなかろうに。