一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

今ふう

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喫煙室

 世間からまったく置いてゆかれた明け暮れ。しかもそれを不愉快ともしない。そんな身だから、よんどころない事情からたまに外出すると、新鮮なものに出くわす。
 若者に訊けば、いずれも当節にあっては、珍しくもないものだそうだ。

 「裏庭か駐車場か、外へ出ればどこか、煙草を吸えるところがありましょうか?」
 「とんでもございません。ひとつ上のフロアに、素敵なお部屋がございますよ」
 うろたえる年寄りをやさしくあやすように、ロビースタッフは笑顔を見せた。
 喫煙室の長机には、銅製のモダンアートが並んでいた。題は「春の産声」。嘘。むろんそんなものではなく、吸殻投入口だ。大きく口を開けた銅製のラッパに放り込めば、机下のタンクへ間違いなく落ちてゆく仕組みだ。

 たんに机上に灰皿を並べただけでは、どうしても机上が汚れる。揉消そうとした拍子に、吸いさしの先から火玉が落ちたり、少量ずつ灰が散り落ちたりしがちだ。なかには喫煙者の風上にも置けぬ、粗雑かつ半端な吸いかた・消しかたをする者もある。
 このラッパであれば、まさかこの中へ吸殻を投じることすらできぬ者はあるまい。果せるかな、机上を灰が散り汚した形跡はまったく見られなかった。
 喫煙者のナマ―意識が低下すれば、ますます世間から迫害を受ける。無視・抵抗すればするほど、自分の首を絞める。従順におとなしく、していよう。この銅細工は、助かる。

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 テーブルを視ると、手拭き用の紙製ウェットナプキンのほかに、文藝春秋サイズの紙袋がある。手に取ると、二辺がつながり二辺が開いた、いわゆるファイル構造だ。
 「食事のあいだ、マスクを挟んでおくための袋です」
 隣席は「祭や」のマスターであるヨッシーさんだ。
 「今はこういうの、当り前にあるようですよ」
 へぇー、初めて視た。云われてみればたしかに、用途はあるよねえ。たゞそういう心くばりを形に表す類の店に、もう何年も私が出入りしていないだけのことだ。

 

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 これは私の時代遅れや世間知らずとは、直接には結びつかぬ件。食事もとどこおりなく済もうかというところで、珈琲が出た。カップにもソーサーにも眼を瞠った。
 カップの底がはまり込む窪みが、ソーラーの真中にないのだ。片寄っている。カップを置いた状態で視ると、ソーラーの片側が広く空く。使用後のスプーンや、例えば砂糖や菓子が小分け包装されていた場合の剥き殻などを、ちょいと置いておくには好都合。

 ごもっとも。カップはソーラーの中心に置かれていなければならぬと、誰が決めたのだ。紅茶や珈琲にも茶道の所作や約束事を摂り入れようとした、昭和前半までの女学校のお行儀教育でもあるまいし、現代の飲みかたにとって使い勝手の好い形式が考案されて当然だ。
 カップも直線を強調した涼しそうな鋭い形で、心地好い。たゞし把手の形は美術志向が強過ぎて、持ちにくい。日常雑器としては、問題ありだ。

 コース料理を通じて、皿類の形や絵柄については、なにも判らなかったが、小鉢・椀類はどれも面白く、現代的シャープカットという点で、一貫していた。眼には、おゝいに愉しめた。
 しかし欲しいとも、拙宅で使ってみたいとも、思わなかった。造りが、洗いものや片づけのさいの取扱いに、気を遣わせられるものばかりだった。つまりはパーティー用であって、普段使い用ではない。私の老後にとっては、一回で足りる鑑賞用に過ぎない。古女房と憧れの女優さんとは違う。その限りにおいて、愉しく鑑賞できた。

 献立も同様。魚も肉も美味しくいたゞいたが、どれもこれも、いかにも玄人料理人さんによるお料理。せめてこの点だけでも真似してみたいと、意欲が湧く料理は、ひと皿もなかった。昔の人はこんなとき、「冥途への土産」と云ったのかもしれないが、めっきり機会が減った私には、「今ふう」を眼にできた日は、愉しい。