一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

弾圧防衛



 池袋駅東口からロータリーを越えた向うへ行くには、中洲のはさんで信号つき横断歩道を二度渡ることになる。中洲には地下道への下り階段が口を開けているが、合金とアクリルの塀に囲われた喫煙所も設置されてある。時局にそぐわぬ悪癖をもつ私にとっては、たまに池袋へ出たさいには、必ずといってよいほど立寄る場所だ。

 年配者が多いのは事実だが、お若いかたの姿がないわけでもない。女性の姿も目立つ。加熱式喫煙道具の利用者も視かけるものの、時間帯にもよるが、こういう喫煙所ではまだまだ紙巻きの比率が高そうだ。
 喫煙者が世間の嫌われ者のごとくに云われて久しい。知能の劣った社会不適合者のごとくに云われることすらある。世間の少数部分であることを、私は気にしないたちだ。毛嫌いされるのも馴れっこだ。ただ犯罪者扱いは、いくらなんでもひどかろうとは思う。

 だが犯罪者と目されてもしかたないと思わされる、眼に余る喫煙マナー欠如を眼にする場合もある。数歩進めば灰皿が設置されてあるのに、横着して吸殻をポイ捨てする喫煙者だ。
 おそらくは喫煙所内が混雑していて、火の点いた煙草を手に灰皿まで進むことが、かえって他人迷惑と考えた人があったのだろう。たまたま底を突きかけていた飲料の缶を臨時灰皿にして、その場に置き放したのだろう。次の人がそこに立って、これ幸いとその臨時灰皿を利用したのだろう。
 ところが何人目かの喫煙者が、その臨時灰皿さえ利用せずに、そのあたりへとポイ捨てしたのだろう。感心できぬ所行である。
 公共道徳の噺をするつもりなど毛頭ない。そもそも私の柄ではないし、他人をとやかく申せた義理ではない。むしろ喫煙の権利防衛を考えて申すまでだ。

 現在の大学構内では、公共施設と同じく敷地内全面禁煙が普通となっていよう。かようになるまでの過渡的段階で、キャンパス内数か所に喫煙所が設けられていた時代があった。校舎裏手の塀ぎわなど、多くは目立ちにくい場所にあった。まるで健全な人たちの眼に触れぬように、僻地へ追いやろうと配慮されてあるかのようだった。
 喫煙者のみが集まる場所であることが気の弛みを助長するものか、そこでは初歩的なマナー欠如が眼にあまるほどだった。巨きな共同灰皿が用意されてあるにもかかわらず、灰皿外にも吸殻が絶えなかった。少々の放置吸殻であれば拾って、自分の吸殻と合わせて灰皿に投入したが、その程度で収まる量ではなかった。本格的に掃除に取組む時間も資格も、私にはなかった。

 繰返すが、これは道徳問題ではない。取締り・弾圧を誘発加速させる利敵行為だ。ほれ視たことか、喫煙者とはかくもだらしなく、不潔で身勝手で、取締らねばならぬ者たちだとの、口実を与えることとなる。つまりマナー違反は弾圧を助長する。
 他人の吸殻まで拾う老教員の姿に、飼い馴らされて牙を抜かれた、惨めな負け犬の姿を観た若者があったかもしれない。些細なルールなど踏み破って歯牙にもかけず、大胆に生きてゆくのが未来を志す若者だと、自任していた者もあったことだろう。後刻喫煙所を廻る清掃員さんの胸中なんぞ、想像したくもないのだったろう。それがゆくゆくはみずからの首を絞めてゆく行為だとは、考え及ばなかったにちがいない。

 抵抗ってのはね、反抗ってのはね、そんなんじゃねえんだなぁと、云って差上げたき思いも湧いたが、さような資格もなく、そこまでのギャラをいただいてもいなかったから、黙っていた。
 ああいうとき、なにか云うべきだったんだろうかと、今でも考えることがある。