一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

正しい

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 鳴り物入りで期待されて参戦しながら、あんがい出番に恵まれぬものも、ひょんなきっかけからふいに参加して、その後長く活躍し続けるものもある。
 プロスポーツ選手のことではない。わがカップ類のことだ。

 インスタントのコーヒーや紅茶、粉末スープほか、小袋から出してカップに投じ、湯を差してスプーンで掻き回すだけという、もっとも手抜きのわが飲料生活において、目下の登板回数がもっとも多いのは、写真右のロッテリアカップだ。
 開店何周年だったかの謝恩サービスとかで、注文カウンターにていたゞいた。店内で使用されているものと、同じデザインだ。ありがたく頂戴して、帰宅後さっそく使ってみたところ、すこぶる具合がよろしかった。
 が、そら恐ろしいことに気づいた。
 「いたゞいたカップ、気に入ったんだけど、人に視られたら、万引きしたと思われるよね」
 次回入店のさいに、店長に話しかけた。
 「大丈夫です。サイズが違いますから。店内使用のものより、わずかに小さくできてます」
 なるほど、そういうもんかと、感心したような、問題残りのような気分だった。

 それまでは長年にわたって、写真左の、大ぶり無地の白カップを愛用してきていた。今もロッテリアカップと併用している。五個セットで入手したが、3.11東日本震災のさいに二個が割れ、現在は三個健在だ。
 たいへん気に入っていたのに、ロッテリアカップに使用頻度トップの座を奪われた理由は、つまみ手(耳)の形状による。大きな耳で、つまみやすくはあるのだが、どんな指使いにも対応しようとてか、心持ち大き過ぎるように拵えてある。その自在さはあっぱれであるものの、決って同じつまみかたしかしない私にとっては、かすかに安定を欠く。
 ウエスト・サイズにして二インチ上のジーパンを履いた感じ、とでも申そうか。

 だがその事態に気づいたのは、ロッテリアカップを使うようになったからこそだ。それまではほとんど無自覚に、上機嫌で愛用してきたのだから、好みだ感性だと、したり顔で云ってみたところで、いゝ加減なものだ。

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 現在、戦力外通告のようになっている、懐かしいカップたちもある。
 左は、お土産として頂戴したもの。当然ながら、一個しかない。厚みといゝ重さ(=軽さ)といゝ、耳の形状といゝ申し分ない。縁の形状とわが唇との相性はロッテリアカップ以上とも申せよう。
 あまりに牧歌的な絵柄が、表現力旺盛に過ぎて、現在二軍落ちしているものの、再登板の可能性は大いにある。もしもロッテリアカップに不測の事態でも起きようものなら、即日復帰となろう。

 写真右のチューリップ型は、もっとも古くからの在籍メンバー。もと組み物だったが、経年使用と東日本震災禍とによって、現存はこの一個のみ。亡母の食器棚からの生残りである。
 おそらくは、どなたかのお祝い事の引出物だ。母は珈琲・紅茶に大ぶりのカップは使わなかったし、深さのある小鉢やスープ皿を上手に使った人だったから、大ぶりのマグカップを自ら選んだとは考えにくい。
 だいいち色も形も絵柄も、母の好みとはかけ離れている。これを自分で選ぶことは、ありえない。
 たゞし大切なかたの、思い出深き引出物だったのだろう。大事に用いられ、野菜スティックがこれに立てられたりしていた。

 私も目下のところ、これを使用する場面を思いつかない。だが台所という現場では、そうそうアレがあったっけと、ふいに思い出す、予想外の場面もありえぬではない。とりあえずは棚の奥で、監視員でもしていてもらう。

 当面使用せぬものはさっさと始末して、なるべく身軽な老後を、という教えは正しかろう。さようではあろうが、正しくばかりはあれぬからこその、人間の暮しというものである。