一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

半家出人


 家に帰らぬ日はたびたびあった。が、家出したことはなかった。

 一九六〇年代後半から七〇年代へかけて、演劇界に地殻変動が起った。(伝統芸能としての古典演劇の世界については、私は知らない。)小劇場運動である。
 一方では既存の新劇劇団内部において路線対立や世代間抗争があったものか、分裂や分派独立が相次いだ。大劇団も少数観客を目処に実験的作品に挑むアトリエ公演だのスタジオ公演だの、喫茶店やレストランを借り切っての公演などを試みた。
 劇団ぶどうの会から飛出した演劇集団変身グループによる、代々木小劇場毎月公演など懐かしい。劇団仮面座による詩の朗読・群読の公演も面白かった。渋谷の喫茶店ジローでの山崎正和潤色による『オイディプス王』も胸高鳴らせて観た。劇団俳優小劇場のうしろ盾だった。まだ渋谷ジァンジァンが開業する前のことだ。

 もう一方では、新劇の作劇法に根本的な疑問を突きつける活動も相次いだ。演劇観変更の提唱である。唐十郎寺山修司鈴木忠志らがそれぞれの劇団を率いて、公演のたびに話題を集めた。一言で申せば(申しちゃいけないんだけど)芝居における肉体の復権の提唱である。
 太古の昔、大鹿を仕留めた、作物が収穫を了えたといっては、人びとは火を囲んだことだろう。酒を酌み、歌い踊ったことだろう。神々に感謝し、祈ったことだろう。そして演劇が発生したことだろう。その想いと活力とを、今の芝居は継承できているか、再現できているかとの問いかけである。演劇は文学の付属品ではない。台本を立体化したものではない。一番大切なのは、台本ではない。役者の肉体と肉声だ。吐息だ汗だ足音だ。
 政治運動に嫌気が差して、若者の心底を支える指標が「革命」から「情念」に移行し始めたころ、これらの運動は頂点に達した。若かった私は心動かされはしたが、それらの活動に身を投じる度胸はなかった。親元に住み、家出するふんぎりもつかなかったからである。

 前三者から少し遅れて、菅孝行の活動もそのころに始まった。彼が主宰する劇団不連続線を熱烈に支持する若者も少なくなかった。ただし前三者とは、かすかに匂いが異なっていた。
 それぞれに政治風刺も社会批判もあったものの、前三者にあったのはあくまでも演劇理論であり、舞台は「情念」一色だった。(似ていたという意味ではない。)が、菅孝行が創る舞台作品からは、社会政治理論がどこか透けて見えた。
 やがて彼は、演劇活動から離れた。硬派の論客としての、思想評論の仕事が中心となっていった。ことに後年は、差別被差別の心理構造の解析に入り、我われの心の奥底に抜きがたくある天皇崇拝意識こそ問題だと見当をつけて、天皇制を指弾する論客となった。
 私とは、関心が重なることのない人となった。古書肆に出す。

 ここで突然、余計な噺。絓秀美(すが ひでみ)さんとは同齢で、とある大学では同僚講師だったこともある。私なんぞより格段に尖鋭な文芸批評家で、骨太の論客だ。声も大きかった。
 しかし人柄は構えよりはずっと繊細な人で、シャイですらある。気恥かしい思いをするくらいなら、その前に大声でとっちめちまおう、といった流儀だ。
 なかなか正しく読んではもらえぬ珍しい姓は筆名で、本名は菅さんだという。
 「なんでまた、そんなに難しい筆名にしたのよ」
 「菅孝行と混同されるのが、イヤだったんだ」
 酒場トークだから、当てにはならない。私の愚問を煙に巻くおつもりだったかもしれない。けれど、たしかにさようおっしゃった。

 まことにローカルな写真集と郷土史資料が、手許にある。地元出身読者かさもなければ、よくよく細部まで掘下げる史家ででもなければ、お眼には留まるまい。脇に抱えて持たねばならぬのどの大判である。重くもある。そう云えば、絓秀実さんもたしか、新潟県のご出身だった。
 目的もなしにつらつら眺めていれば、けっこう面白い。ふいに知っている土地が出てきたり、いずれの機会だったか耳にしたことのある先人が登場したりもする。が、これらを蔵書として参照もしくは活用する機会は、もう私には訪れまい。古書肆に出す。