一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

桃太郎

もう一丁、アガリ

 自炊老人の食事にはバランスが肝心。体裁は二の次だ。

 食べものの好き嫌いは元来ほとんどないが、小学校の給食では、ヒジキだけがどうしても食べられなかった。それが今では、四季をとおしてヒジキを炊く。判らぬものである。そのことは以前、日記に書いた。

 ヒジキであることが重要で、立派なヒジキである必要はない。たとえばビッグエーでは、乾燥ヒジキに「芽ヒジキ」「長ヒジキ」の二商品があって、販売価格は同額だ。たゞし芽ヒジキはひと袋十四グラム入り、長ヒジキは十一グラム入りだ。当然だが芽ヒジキを使っている。
 長ヒジキもむろん使ってみた。歯応えのある、見映えの好い煮物ができた。が、味は一緒だった。栄養価にも、おそらく違いはあるまい。次からまた、芽ヒジキに戻した。

 乾燥ヒジキを水で戻し、ボウルで水切りしておく。半袋か三分の二袋、ということは八~九グラムなんだろうか。テキトーだ。
 その間に、ニンジンと竹輪を刻む。名はヒジキの炊き物であっても、じつは豆料理と称んでもよろしいほどに、大豆が大切なのだが、乾物を戻す時間と手間を惜しんで、袋入りの水煮を使っている。

 鍋に油を敷いて熱する。料理番組の先生がよくおっしゃる「油を大さじ二杯」と申したきところなれど、それでは仕上りが、私には少々油っこい。心持ち油少なめ。すぐに具を投入してはいけない。入れるとすればショウガ、ネギなど油に香りづけするていどだろうが、いちおうやってはみたものの、後でガツンと味をつける料理なので、効果はない。それよりも、油の表面に陽炎が立つほど十分に熱しておくことが肝要。

 ヒジキと竹輪を投入。水切りしたとはいえまだ湿っているから、ジャーッと音がする。ヘラで手早く油を回していると、ヒジキなんぞあっという間に火が通り、磯の香が上ってくる。油少なめだから鍋の隅にヒジキが焦げ付いたようになるが、心配ない。あとで自然にとれる。

 鍋内の温度が急上昇し、ほんとに焦げるまえに、ニンジンを投入。一気に鍋内温度が急降下するので。また混ぜる。ニンジンの表面に油が回れば、煮とろけないようになる。
 大豆水煮を投入。メーカーによって袋内の液体量が異なるが、かまうことはない、出汁のひとつと思って液体ごと入れてしまう。
 酒投入。玉しゃもじに二杯。私は人さまより多いほうかもしれない。すぐにアルコールが飛んでしまうから、出し汁を差して鍋内を落着かせる。

 砂糖を放り込んで、数分煮る。醤油は後回し。同時に投入すると、ヒジキが甘味より塩分を先に吸ってしまって、仕上りがやゝしょっぱくなる気がしている。五分近くも煮てから醤油を差しても、遅くはない。醤油を差したら、あとは鍋の仕事。フタをして待つ。
 たゞし、五分に一回ていど、ヘラでかき回してやる。鍋内を均等にしてやるわけだが、ことに熱膨張した竹輪が表面に浮きあがりがちとなるので、出し汁に浸けてやるのが一番の目的。

 炊き物、煮詰め物はすべからく、火の引き時が肝心だ。ヒジキの場合は、ヘラを鍋底まで突っこんで、掻き寄せるようにグイッと具を寄せてみる。煮汁が見えず鍋底があらわに見える。が、一秒二秒するうちに周りから煮汁がジワーッと出てきて、鍋底を隠してしまう。これが火の引き時である。
 あとは、赤児泣いてもフタ取るな、である。明朝冷めきるころには、ジワーッと出てきていた煮汁は、具たちが跡形もなく吸ってくれているはずだ。

 色合いが色合いだし、見映えが見映えだしするから、人さまにお奨めはいたしかねる。が、まがりなりにも自炊生活で、私の健康を支えてくれているのは、かようなバランス食糧たちだと信じている。
 ヒジキもカボチャも、さらには納豆も梅干も、云ってみれば犬・猿・雉である。これらが万全でさえあれば、いかに不出来な桃太郎がやってこようと、支えてやれる。主菜より副菜が大事。この矢印、けっして逆ではない。
 じつは我がほうのこと、すなわち文学も、まことにさようであるなぁと、つくづく思うのである。