一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

芋の春



 チョコは来ないが、芋が来た。

 学友大北君の畑から、ご丹精の里芋が届いた。チョットばかり、とのメール付きだが、多い少ないは背景による。畑にあっては少量でも、わが台所で荷を解けば大量だ。
 さつま芋と里芋との、今季最後の収穫をなさったらしい。昨年から根なり地下茎なりに蓄積貯蔵してきた力を、さて春一番、いよいよ次年度地上部へと役立てようと図る芋たちの終盤戦だ。これ以上地中に置いたままにすると、痩せてきたり腐ってきたりするという。
 同齢の大北君だが、先年大患にも見舞われたようだし、疫病下では運動不足による体調異変にも陥ったものの、どうやら畑があるおかげで私より元気だ。極端な出不精で籠城暮しを続ける私を、気遣ってくださる。

 里芋は大好物だ。が、簡略自炊にあって芋の同時多品目はぜいたくと思えて、ついついじゃが芋優先の買物となりがちだ。かような到来物でもなければ、大胆に調理する機会は訪れない。しかも今回は、私の調理規模からすると、二回分にもなる。
 一計を案じて、一挙に使ってみることにした。包丁で厚く皮剥きしてはもったいないから、金属タワシで擦って剥く。これが存外時間がかかる。料理本でもウェブ上の腕自慢による公開レシピでも、教えてくれぬ点だ。「ごごカフェ」で武内陶子さんの声が聞えていたはずが、国会中継に変っている。安倍派の裏金追求に証人喚問だ解散だと。自民党がそんなことするわけねえじゃねえか、茶番だなぁ。
 芋をすべて裸にするには、およそ一時間かかった。腰が痛くなったので椅子に腰掛けて、即席コーンポタージュを一杯。気を取り直して、タワシでは擦り尽せぬ箇所を包丁で修正する。皮剥き完了まで〆て一時間半かかった。指先の感覚には明日まで違和感が残ることだろう。


 ここからは普通の煮っころがしの手順だ。水と料理酒と砂糖、それに私流おまじないの生姜を加えて、煮鍋の用意をしておく。中華鍋を火にかけて、芋に油通しする。油に馴染んで、うっすら火が通ったところで、油切りに取る。煮鍋をガス台に載せて、余分な油を切った芋を投入。落し蓋で十分間煮る。醤油を差す。また煮る。もう落し蓋は要らない。煮ると云うより炊く感じだ。煮汁の減り具合とトロ味の出具合を看ながら、時間は適当だ。
 わがガス台には火口がふたつ開いてあったが、経年目詰まりで片方はもうなん年も使えず、ひと口のガス台で直列乾電池式進行しかできないから、手順がまだるっこしい。ようやくひと鍋めが炊けた。

 別の煮鍋を用意しながら、中華鍋をまた火にかける。ここが本日一計を案じた点で、つねの醤油味のほかに、味噌味でもうひと鍋、炊こうというのである。料理酒で溶いてペースト状にした味噌を用意しておく。その後の手順は、醤油味の場合とまったく同じだ。つまり煮鍋を二個使い、時間を前編後編の二倍かけたわけだ。
 鍋ふたつの粗熱が取れて、味見できたときには、国会中継は了っていた。途中の腰痛によるスープ休憩と珈琲休憩を含めると、五時間も台所にいた勘定になる。

 味には満足した。醤油味と味噌味とで目覚しく異なるというほどではない。それでも味に違いはあるし、香りも舌触りも異なる。いずれが上位とも申しかねる。
 それよりなにより、芋が美味い。ねっとりした歯応えは去年以上で、口中で溶けるように崩れたから容易に呑み込んだつもりでも、口腔の奥だか喉だかに留まったまま、下ってゆかぬ感じだ。これは他の芋類にもいかなる野菜にもありえない、里芋だけの特色だろう。

 鍋三つをはじめとするかなりの調理器具と食器とが流し台に山をなした。洗いものをしていると、排水溝のネットが目詰まりして水が逆流してきた。泥付きの里芋の皮を、大量に剥いたからだ。今季最後という春の芋が、遠い農園の春の畑土を拙宅にまで運んできたのである。