一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

多肉


 樹木にも山野草にも石にも、それぞれ短い中途半端な期間だが、生半可な興味を抱いたことがある。が、多肉植物・サボテン類にだけは、興味が湧かなかった。慙愧に堪えない。

 養分豊富な土地にも水分豊富な土地にも、それらをふんだんに欲しがる植物が栄える。陽光、樹陰、風通し、気温、地温、空中湿度、求める条件はさまざまだ。それぞれに競合相手をだし抜き、天敵から身を護るすべを身につけ、独特な繁殖計略が張り巡らされてある。
 競争は熾烈をきわめる。だったら植物に適するなんらの条件もなさそうな土地に生きれば、競合相手も天敵もない。そんな土地を独占してきたのが、多肉植物およびサボテン類だ。

 地味にも水分にも、ほとんど期待しない。かすかな摂取環境から最低限を吸上げ、体内に蓄積する。したがって、身はボテッと厚い。
 ほとんどの種類の背丈は低い。伸長するほどの余分なエネルギーにも栄養にも恵まれてはいないからだ。
 成長はのろい。急いで成長して次世代へバトンタッチすることなど望まない。抵抗力の乏しい次世代の幼苗が、容易に生きられる環境ではないのだ。
 繁殖は頻繁でも大規模でもない。いたずらに個体数が増えても、共倒れとなるだけだからだ。虫や風の助けを借りてまで、活発な繁殖活動をしない。虫を招き寄せる必要も風に乗って遠くまで移動する必要も感じない。
 幸運にも着地・成長できたみずからの肉体を、大事に大事に、わずかづつ大きくしてゆく。

 目覚しい成長も、可憐な花もないから、園芸分野としては、これでもかとばかりに地味である。
 砂漠のような環境に育つ生命だから、養分豊富な用土ではいけない。雨に打たれたり、過剰な水分を与えたりしてもならない。日本のように四季のある湿潤気候は、多くの植物には好都合でも、この仲間にとっては逆境だ。雨対策・湿潤対策は不可欠となる。

 これでも園芸分野なのだろうか。かように不愛想な植物を愛好する人びとの気が知れない。かつてはさように思っていた。若気の至りである。
 恵まれた環境を放棄した。もしくは断念した。他の生命体や自然現象の助けに期待してまで、競争に勝ち抜こうとの野心も放棄した。
 自前で生きられるところまで生きる。そのために必要な肉体は、準備できる限りは自分で準備する。成長がのろかったり、繁殖力が旺盛でなかったりすることなど、なにほどのことでもない。さようなことは、生命の核心的価値にとって、目安でも基準でもありえない。

 行きつけの散髪屋さんへの道すがら、多肉植物のみを栽培していらっしゃるお宅がある。微細な点にまで行届いたお手入れの完成度は、烈風にあらがう枯木のごとし。感服・敬服をはるかに超えて、凄まじさすら覚える。
 私は通りすがりに、盗み観るように拝見するのみである。丹精なさっておられるご当主に面会する気も、ご苦労譚を伺う気もない。怖ろしいからだ。