一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

下ごしらえ


 せっかくの到来物は新鮮なうちに、さっさといただいてしまおう。

 好物にもかかわらず、めったに里芋を八百屋で買わぬ台所事情については、いく度も書いた。学友大北君のお心遣いのおかげで、珍しいものを口にできる。例により我流ヤマ勘仕立てではあるけれども。
 新鮮な里芋の皮を包丁で剥くほど愚かなことはない。台所用のスポンジで剥ける。ただし硬めのスポンジが最適だ。あいにくわが台所には、食器洗い用の柔らかめスポンジしかない。頑固な油汚れを洗う機会などめったにないからだ。鍋底の焦げ煤磨きには、金属タワシを使ってしまう。つまり軟と硬とがあって、中の備えがないのだ。
 懸念したとおり、柔らかめスポンジではあまりに捗らなかった。仕方なく金属タワシを使う。食材に金属片が紛れこまぬよう気をつけねばならない。

 青果市場で選別された型揃いの芋ではない。形も大きさも多彩な天然ものである。子芋のごとき瘤が突出たものもある。溝や窪みや曲り角が豊富である。不定形の金属タワシ、つまり細い針金が糸屑か毛玉のように絡まったタワシを、指先に薄く伸ばして磨きこすると、窪みや溝にまで力が行届く。ただし呆れるほど時間がかかる。
 ネット上のレシピには、調味料も煮炊きの時間も実例つきで示されてあるが、皮剥きに要する時間は明示されてない。覗いてみたことはないが、料理本も似たようなもんだろう。
 人並外れて不器用な自分の責任かもしれぬが、皮剥きの時間と煮炊きの時間とは、ほとんど変らない。それほど下ごしらえには手間がかかるということだ。

 意見の分れるところだろうが、私は鍋底に薄く油を敷いて、軽く炒める。というか芋の表面に油をまとわせる。水と料理酒とを差す。比率は 3/1 だろうか 4/1 だろうか。ヤマ勘の目分量だ。芋が水に隠れればそれでよい。これまた目分量で砂糖を投入したら、落し蓋をして煮てしまう。中火で十分というところか。ヌルや灰汁が浮き出てきても、知らん顔だ。
 半煮えたあたりで醤油を差す。多過ぎは禁物だ。この先は短くてよいそうだが、拙宅レンジは老朽化して火勢が偏っているので、さらに十分煮るといった気分か。それで火が通る。熟練とは腕を挙げることではない。手持ちの道具の癖や欠陥に対応できるということだ。
 仕上げに入る。指南レシピでは味醂を使うところだろうが、私はある時期から味醂というものを買わなくなったので、ほんの少々の料理酒にこれまたほんの少々の蜂蜜を溶いて投入する。火を強めて、煮汁をかけ回しながら煮詰めてゆき、好みの粘り気が出たところで終了である。

 煮っころがしはじつに久しぶりだ。つい味見が過ぎる。冷蔵庫から缶ビール三百五十ミリを抜き出してしまった。湯気の立つうちに撮影だけ済ませておいてよかった。飲み了えるころには、煮っころがしは半量となってしまった。
 飲みながら、つらつら記憶を辿った。卒業制作で結果を残す学生は、二年生時の心がけでだいたい見える。下ごしらえの手間が問題だ。仕上げが味醂か酒かは、それほど問題ではない。