一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一年中

一丁アガリ

 一年をとおして、カボチャを食う男である。

 今は国産食材。品うすの季節となればニュージーランド産が出回る。さらに季節が移ればメキシコ産へと切替る。とやかく申せる身分ではない。どこ産だって、ありがたくいたゞく。
 シンプルイズベスト、素朴に炊く。しかも甘めに。飯の副菜というよりも、添え物。むしろデザートに近い。一朴造語ではパンプキントン。きんとんの一種と見立てている。

 スプーンで種とワタを外す。スイカやメロンを食べる用の、先の割れた柄の長いスプーンが好都合。いろいろ試してみての暫定結果だ。
 種は干して炒って、スナックとすることもできようが、こんな少量、見合うはずもない。ワタは種とちがって味も好く栄養満点なのだと、聴いたことがある。が、種とワタとを分けるのに手間がかゝりすぎる。菜箸やスプーンでこそげ落してみたり、ぬるま湯に漬けてみたりもしてみたが、思ったほどにはゆかなかった。
 おそらくは私に、コツも心得もわきまえがないからだろう。知識も技術も足りていないのだろう。が、この件を習得しようかという気は、目下のところない。課題の優先順位としては、下のほうだ。

 

 鍋に砂糖を敷く。朝の薄雪。
 昨夜の雨、いつの間にか雪に変ってたんだ。どうりで妙に静かだと思ったよ。でも明けがたまでには止んだと見える。積らなくて助かったよ。という程度に、砂糖を敷く。
 具はできる限り隙間なく、詰め並べる。湯の煮立ちに、鍋のなかで具が動くのは、得策ではない。つまりカボチャの巨きさに見合う、鍋の選定がコツといえばコツだ。

 火にかけたら、まず酒を投入。テキトーだが、申すならば玉しゃもじに一杯半。料理番組用語では、オチョコに二杯、とでも云うところか。あっという間にアルコールは飛ぶ。
 出し汁を差す。これも番組用語で云えば、具が隠れるくらい。肩まで湯に浸かるよりは、もっと。かといって溺れるほどは不要。かすかに頭が出るていど。

 応援部隊に登場してもらうとすれば、こゝだ。私はショウガのスライス二枚ほどを刻んで投入する。かつては細切り昆布だの鰹節だの、試してみたものだった。美味いのかもしれぬが、なにやら味がうるさく、飽きがくる。結局はショウガだけが生残った。
 あとは鍋に蓋をして、炊きあがりを待つ。火加減は、煮物炊き物に共通の基本どおり。初め中火で鍋内の温度を上げ、煮立ったら細火に。カボチャのでんぷん質が糖質に変るには、沸騰して十五分必要だから、それよりも早仕上げは不可。

 

 火の引き時。これが唯一、コツと申せばコツかもしれない。
 出し汁はほとんど見えなくなったようだが、ほんの少量、まだ鍋底でブクブク泡立っている。が、このていどであれば、蒸らして(冷まして)いる間に、具が吸収してくれる。というところで、火から降ろす。
 引き時をはやまると、水分過多のべちゃべちゃ系カボチャ煮となる。それがお好みのかたも多いから、お引留めはしないが、私は採らない。
 引き時を逸すると、味や香りにかすかな焦げ臭さが混じる。鍋洗いにも鍋底磨きにも余計な手間がかゝる。
 火を引いてからは、本日に限り撮影用にフタを取ったが、普段であれば、赤児泣いてもフタ取るなである。

 いかなることがあろうとも、カボチャだけは絶対に食わないとおっしゃるかたがたがある。私より十歳近く年長もしくはもう少し上の世代に多い。戦時中の学童集団疎開か、敗戦直後の極限的食糧難をご経験なさったかたがたである。地域にもよろうが、来る日も来る日も、カボチャだけを食わされた、それ以外の食糧はなかったという幼少期をもたれた。カボチャの匂いはおろか、眼にするのさえウンザリだとおっしゃる。
 経験せぬ身には想像もつかぬが、さようなこともありうるだろう。お気の毒ではあるが、おかけする言葉もない。
 はなはだ申しあげにくいのですが、先輩、私は一年中カボチャを食っております。