一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

トロイ

コロニー突如大崩壊、パニック!

 空模様の好い日には、かつ午前中に眼醒めている日には、かつ気分が好い日には、十五分庭仕事。

 ひと坪草むしり何回かぶんの収穫(?)が、いくつかの枯草山となっている。そのうちの二つを、地面の穴に埋め戻す。
 なにせ生命力逞しい連中のことだ。なかには、引きちぎられた根の一部分からでも再生してくる連中もある。完全に枯草となるのを視届けぬうちは、油断ができない。
 このところの雨とじめじめ陽気。それにカラッと晴の繰返しで、視たところ上々の枯草となった。

 今回の穴は、新たには掘らない。地上部をすべて伐りとったはずのネズミモチの切株から、四方の地中に延びていた根のうちのようやく一本を、ノコギリで切断して掘りあげた、その跡穴を埋めようと思う。
 

 切株からは四季をとおして、ひこばえのごとき小枝が吹きだしてくる。むろん剪る。その繰返しだ。
 四方に張った根もろともに、切株ごと掘出してしまおうという作業は、私の手に余る。玄人さんのお手を煩わせねばならぬ大仕事だ。それに、なんだかこだわり過ぎの感もある。

 まずはスコップで、切株から延びる一本の根の方向を探り出し、左右を掘って根の姿をあらわにして、ノコギリを使った。
 およそ一メートル余り。これより先端方向はコンクリート敷きの下へと延びこんでいて、掘れなかった。
 たいした成果とは申せまいが、それでも、地中の水分や養分を切株へと送る補給路の二割か三割ていどは削減できたのではないだろうか。
 根だとて油断はならないから、陽当りの好いところへ転がしておいて、もうふた月にもなる。そろそろほかの枯枝類とともに、短く切断して塀際に積むか埋めるかしてもよいかもしれない。

 さて根の跡穴へ枯草をぎゅうぎゅう詰めにするわけだが、枯草山を取り除けることは私にとっては両腕による一回作業にすぎなくとも、これを天地鳴動の大惨事と受取る連中がある。
 約二か月放置するうちに、生草は枯草となり、その間には雨に打たれ陽にあぶられ、腐蝕によるガスも発生したろうし、微生物の働きもあったろう。そこはダンゴムシたちにとっての理想郷であり、産卵子育ての最適地と化していた。
 それが無残にも、気紛れな人間の手によって、一瞬のうちに取り除かれるのである。ひと目百匹は下らぬダンゴムシたちが、一目散に次なる物陰へと、てんでんばらばらに散ってゆく。方向に法則性がないのが、狼狽ぶりの凄まじさを示している。
 視慣れた色艶の成虫に混じって、色の淡いのや半透明なのまでいる。枯草山の中心だったあたりでは、子育てが始まっていたのだろうか。

 かつて美と憧れに匂い立った、我らが都は跡形もなく滅び去った。
 幸いにして命ながらえし民たちよ、次なる都へと望みをつなぐべし。
 かくして、トロイの詩人はこゝに死す。
 あとはギリシアの詩人たちが詠ってくれるであろう。