一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

その前に

 手抜き家事、ということに真剣になれるのも、わが来し方が手抜き人生だったからではあるまいか。きっとそうだ。

 一食ごとに毎回手をかけるのは、玉子を焼くことと、三杯酢の酢の物か酢味噌和えのぬたを作るていど。あとは日持ちのする作り置きか買い置きの菜を並べるだけ。炊事でもっとも時間がかゝるのは、粥を炊くことだ。それすら時間節約したいときがある。

 郷里の従兄が季節ごとに、地元ならではの食材を贈ってくれる。まことにありがたい。詰合せのなかに、「舞茸ご飯の素」という袋詰めの加工食品があった。
 はてな? まだテレビを観ていたころ、宣伝を眼にしたことがある気がする。こちらのスーパーでも、この袋デザインを眼にした記憶もある。買ったことはないが。
 裏返して、商品説明を詳しく読んでみた。製造元「雪国まいたけ」は、南魚沼市にある会社だった。知らなかった。これも郷里の企業の製品であったか。
 これからは、従兄から贈られなくても、ときどき使ってみようか。人間心理など、他愛のないものである。

 三合の米に通常通りの水加減をして、商品一袋ぶんを投じて炊くだけらしい。が、こういう商品は消費者へのインパクトを強からしめるために、心もち濃いめに味付けしてあることだろう。米を三合二勺見当に。その代り酒を玉しゃもじ一杯半、刻みショウガと細切り昆布を加えて、昆布が水のなかで戻ってからよく掻き混ぜて、炊いてみた。
 狙いドンピシャ。癖になりそうな炊込みご飯が炊けた。

 つね日ごろから手抜き炊事なのに、冷凍飯から粥を炊かずに済ませるとなれば、さらに時間短縮である。
 なぜそれほどまでに時間を惜しむかと申せば、ほとんど武装解除した退職老人に、それでもなにか書け、なにかしろと、仕事を回してくださる奇特なかたがあって、さようなありがたいお申し越しに対しては、原則として断らない。お役に立てるようであれば、できる限り対応したいと考える。

 今月末〆切で、とある文芸雑誌の特集に記事を書かせてくださるという。八月末〆切で、別の雑誌にとある小説家についての紹介的作家論を書かせてくださるという。八月上旬には、とある文芸雑誌の夏季企画として、学生と市民向けに一回読切り形式の公開講座で喋らせてくださるという。また昨年も担当させていたゞいたが、とある新人賞の選考委員の一人として、予選審査の段階から参加させてくださるという。かなりの本数の将来性ある作品群を、読み較べることになる。

 加えて、若者から一篇、昔の仲間から一篇、読んでみて欲しいとの原稿を預かっている。
 お若い友人ご夫妻からは、山梨県の富士山絶景の地にお引越しなさったので、ぜひ遊びに来いと、願ったり叶ったりのお誘いをいたゞいている。
 かつてご恩をいたゞいた先輩である小説家が、今は信州に隠棲しておられて、一度お訪ねせねばとかねがね考えてはきたものの、在職中はついに果せず、ようやく定年退職したと思いきや今度は疫病騒ぎで果せぬまゝになってきたのを、なんとか実現したい。
 無職老人も、あんがい心急くことが絶えないのである。

 齢老いての能力減退について、解ったことがある。複数の仕事の同時進行能力は著しく低下した。ひとつずつ処理してゆかねば、間違いを犯す。また表からも裏からも考え併せるべき世間常識や人事関係への配慮も、著しく鈍麻した。
 瞬発力とでも云おうか、一瞬の判断・判定だけは、まだかろうじて使いものになりそうだ。とりわけ文学に関しては。短時間の集中には耐える。が、集中の持続時間は短くなっている。
 この日記を一本書いたら、もう一台のパソコンへと移動して、ネットで碁を一局、打ちたくなる。ものゝ二十ページも読書したら、台所へと移動して、コーンスープでも飲もうかという気になる。

 これから暑く凌ぎにくい季節に向おうというのだから、フンドシの紐を締めなおしてかゝらねば……。できる仕事を少しでも前倒しするためには、炊事による仕事中断の時間などにも気を使わねばならぬ。「舞茸ご飯の素」の助けも借りたほうがよろしいだろうか。

 


 紅茶は、湯温に頓着せず、ティーバッグを煮てしまう。紅茶愛好家からは一喝されることだろう。珈琲は、湯温に頓着せず、熱闘にスプーン二杯のインスタントコーヒーを放り込んでしまう。珈琲通は眉をひそめるにちがいない。
 どうせ冷ましてしまうのだ。香りも風味も、知ったこっちゃない。

 冷ましたら冷蔵庫の扉裏に整列。ボトルだけは一流メーカー謹製品。中身は、煮出した紅茶、カルピス、そして熱湯に投入しただけのインスタント珈琲である。
 さて、一日分の飲料は完備できた。仕事に集中できる体勢は整った。
 机に向うまえに、一局、打っておくとするか……。