一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

うしろの正面


 じつに久かたぶりに、芥川龍之介の短篇をいくつか読んだ。

 今回は、評価高い『蜜柑』が書かれた直後、大正八(1919)年の作品群だ。初期作品に顕著な、シテヤッタリのお茶目な機知は薄れ、かといって晩年の憂鬱症はまだ発していない時期である。
 とはいえ『魔術』『妖婆』などは、オカルト的要素ふんだんで、『古今著聞集』『今昔物語』にあってもおかしくない着想を含んでいる。『蜜柑』とはだいぶ異なる。

 志賀直哉芥川龍之介を語った『沓掛にて』という有名な文章は、『妖婆』を材料にしていた。ご両所の芸術観の対照的相違が明瞭となった感想文だ。
 妖術使いの婆さんの虜となっている恋人を、親友とともに取返しにゆく噺だ。いざ決行の日、ふいの夕立。稲妻と雷鳴のなか、一本の蛇の目に肩寄せ合って、二人は婆さんの家に向う。様子を窺いながら、隣りの荒物屋へふと眼をやると、ちょうど買物に出てきていた恋人の姿が見えた。二人はとっさに荒物屋に飛込む。

 ――二人は思はず顔を見合せると、ほとんど一秒もためらはずに、夏羽織の裾を飜しながら、つかつかと荒物屋の店へはいりました。

 志賀は云う。「顔を見合はせる」はごもっとも。「一秒もためらはずに」も納得がゆく。「夏羽織」も自然だ。が、その「裾を飜し」はいかゞかと。
 二人は彼女の姿を眼にしたとたんに、もはや望み薄かと思われていた作戦に僥倖が訪れたかと、とっさに店へ飛込んだのだ。眼のやり場も心理の方向も、店の奥へと向っている。申すまでもなく読者の期待もさようだ。にもかゝわらず、腰の後ろに翻った羽織の裾など、邪魔ではないか。読者の視線に逆行するではないか。想像力の方向や期待感にブレーキをかけるではないか。

 まことに、志賀直哉の文体美学からして、頷ける指摘だ。しかし一方の芥川は、そこを書いてしまう作家なのだ。個性のちがい、作風と文体美学のちがい、ご両所の芸術観の対照的相違である。
 芥川は、作品の背後に身を隠してこその芸術家だろうと考えている。立体的に仕上って自律してある作品を創ることで、背後にいる芸術家は満足がゆくと考える。
 志賀は、作者自身とはおよそ似ても似つかぬ人物や場面を設定した作品においてさえ、展開する心理はすべからく志賀直哉本人のものだ。それ以外は余計なもの、書かなくてよいものとして、刈込まれる。結果として、作者が前面に顕れる。読者は主人公について読んでいるのだが、同時に志賀直哉を読まされてもいる。だからこその芸術であり、自分は芸術家だと考えている。
 近代ヨーロッパ的芸術観と教祖的芸術観のちがいだ。

芥川龍之介(1892-1927)
文藝春秋 芥川賞直木賞150回 全記録』から無断で切取らせていたゞきました。

 同世代作家の広津和郎宇野浩二との、芥川の交友が忘れられない。羽織の裾が翻ってから、七年あまりのちのことだが。
 宇野が精神を病んで重症化。広津の計らいで斎藤茂吉に往診してもらい、翌日広津は青山脳病院へと薬をもらい受けに赴く。そこへ芥川も駆けつけてくる。宇野の容態にじっとしてはおられず、斎藤からじかに話を聴きたかったという。二人は薬を待つ。
 「芸術にこれほど打込んで狂ったとなれば、宇野君もこれで芸術家として本望と云えるね」
 「えっ、芥川君、ほんとうに君は、そんなふうに思うのかい?」
 「あゝ、思うね」
 「ぼくには、そんなふうには思えないねぇ。飽くまでもこの世に生きて、できることなら家族をすべてこの手で送って、最後に独りで死んでゆきたいもんだと思うよ」
 「いかにも、広津君らしいねぇ」

 志賀直哉とは少々異なる資質ではあったが、広津和郎もまた、作品よりも作者が前面に顕れてしまう型の作家だった。芥川龍之介は、広津に信頼を寄せ、宇野の容態に心を痛めながらも、胸裡ではすでに自殺の準備を進めていた。