一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

嗅ぎたい

志賀直哉(1883 - 1971)

 人間に踏込もうとすれば、どうしたって匂いの噺になる。

 井伏鱒二永井龍男の対談は、昭和四十七年(1972)一月号の雑誌に掲載された。前年末に発売されたはずだ。対談はさらに前だ。その年の十月には志賀直哉が他界したばかり。それぞれ志賀については想いおありのご両所にとっては、直後の感慨が胸中に渦巻いていた時期だったろう。対談はまず、志賀直哉についての感想や、数少ない面談時の思い出などを語り合うところから始まっている。
 新進作家だったご両所にとって、志賀直哉はたんに尊敬の対象というよりは畏怖の対象ともいうべき、なかば神格化された存在だった。友人に連れられて初訪問し井伏鱒二が帰ったあと、「井伏君はずいぶん無口な男だね」と志賀は感想を漏らしたという。むろん井伏は日ごろ、無口でも人見知りでもない。あがってしまって口が利けなかったのである。

 正月の新聞に掲載された志賀直哉の短い「新年随筆」が佳いと感じた井伏鱒二は、伝手を活用してその生原稿を入手した。
 「そりゃすごいや、国宝級だなぁ」と、永井龍男は感心する。
 「もうひとつ「歌舞伎座見物」というのを持っている。これも苦心惨憺して手に入れた」と、自慢げに井伏鱒二
 「ふたつ持ってることはないじゃないか。不届き千万だ」と、羨ましげな永井龍男

 永井龍男も友人に連れられて志賀直哉に初面会したが、座敷を出たり入ったりする志賀のうしろへ何気なさそうに回り、匂いを嗅いだという。限られた人のみが知る逸話だったのだろうが、井伏がこゝでスッパ抜いた。
 「志賀さんって、どんな匂いがするのかと思って」と、永井は否定していない。
 そしてご両所の感想は、「そういうもんだったなあ、志賀さんって」というところに落着く。

 私にも学校の恩師もあれば、文学のうえで手本と仰いだかたもないではない。が、さような先達がたの匂いに興味をもった経験は、遺憾ながらない。ご両所の志賀直哉への想いに匹敵するだけの、思い入れる力と才能が、私に欠けていたということだろう。
 これが師でなく女性に対してとなると、少々面倒な噺なのだが、だいぶある。若い時分から、芳香も異臭悪臭も含めて、女性が発する匂いがことのほか好きだった。ま、当方に性欲があるからには当然かと、自分を納得させていた。が、女性問題はすべからく過去の記憶の中にのみある齢になってみて、匂いの相性というものは端倪すべからざるものと、今さらながらに痛感する。

 交際の深浅とは関係ない。近づいたり遠ざかったり、すったもんだした相手の匂いをまったく記憶していないこともある。そのくせたった一夜の、不埒ながら行きずりの関係だったにもかゝわらず、妙に匂いだけ記憶している女性もある。名前はもちろん、失礼ながら顔立ちすら記憶していない女性でもだ。
 いつも清潔そうな無臭の魅力をたゝえた女性もあったし、香りの淡さゆえ掴みどころの感じられぬ女性もあった。汗臭さが魅力的な女性もあったし、君から匂いを取ったらなにも残らないと感じた女性もあった。むろんこの手のことは、自分の至らなさ身勝手さを棚に揚げて申すのである。
 男がよく云う、女性の髪の匂いの件でもさようだ。あれは髪の匂いなんぞではあるまい。なんらかのきっかけで女性が興奮発情した瞬間に、今風に申せばスイッチが入った瞬間に、頭皮の毛穴がいっせいに開いてなにやらホルモン系の気体が発せられるのかと思われる。医学生理学見識まったくなしの経験論だが、確信している。
 あの匂いを嗅いだ瞬間に、ヤッタゼと思えるか、シマッタとの想いが頭をよぎるかは、かつてかなりの分岐点だったように思われる。

中島史恵(1868 - )

 実践の機会壊滅した今ですら、女優さんやファッションモデルさんを眺めても、立ちのぼってくる匂いを連想させてくれる女性が好きだ。あるいは、この女性なら匂いを嗅がせていたゞきたいと、当方を刺激してくれる女性が好きだ。容姿か表情か、仕草か声か、メカニズムは判らない。一般的な意味での芳香ではなく、私が好きな女性の匂いのことである。
 めっきり機会が減ってしまったが、アダルト映像を覗いてみることもある。当然ながら好みは片寄る。画面をとおして匂いのする女優さんを探している。カメラか照明か美術かは知らないが、匂いを狙ってくれている演出家の作品を観る。
 あえてお名前伏せるが、最近気に入った熟女さんがあった。女優さんとも称びがたい。「初撮り人妻ドキュメント」シリーズに応募者を装って出演し、数か月後に「初撮り人妻、ふたたび」が出たきり、DVD はその二作しかない。四年も前のことだ。
 今アダルト通販サイトを検索してみると、案のじょう初版はとっくに品切れとなっていて、ユーズド(中古)商品も出回っていない。たゞしマニア同士がレアものを取引きするステージがあって、そこには一本だけ、七千六百円という法外な値段がついたものが出ている。
 半素人の出演作品に眼を着けてストックし、この商品には高額を厭わぬ客がどこかに潜んでいるはずと、とんでもない価格設定で網を張っている業者がある。この山道を行きし人あり。どんな細道にも、先達はあるものだ。

 中島史恵さんは、今では女優・タレントというより、美容健康ヨガの専門家とお称びすべきだろう。芸能人として天下を窺うようなタイプの女性ではなかったが、地味ながら私のような隠れファンが、ほかにも根強く潜んでいる女性とお視受けする。十冊ほどの写真集やそれ以上のイメージ DVD があるが、これがまた古書価格でも値崩れしない。
 写真集と同じ匂いがするかどうか、一度中島さんとお眼にかゝりに伺えばよろしいわけだが、今さらヨガ体操をしてみてもなぁ。