一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

開戦の日



 昭和16年(1941)12月8日、神戸のホテルのルームで朝寝を決込んでいた徳川夢声のもとへ、岸井明が駆込んできた。慌てた様子で、扉も開けっ放しのままだった。東條英機首相のラジオ放送が始まるという。

 夢声は月初めから湊川新開地の花月劇場で芝居の興行中だった。演目はドタバタ諷刺喜劇「隣組鉄条網」で、谷崎トシ子(戦後の人気歌手江利チエミの生母)ほかの共演による、十日間興行だった。浅草での初演が当ったのを観て、それではと吉本興業が神戸へ持ってきたのである。
 おりしも唄えるコメディアンとして人気者だった岸井明が阪急会館で音楽ショーの興行中で、同じホテルに宿泊していた。

 昼夜二回興行とはいっても、芝居の準備は午後からだ。ルームでのゆっくり朝寝が、巡業中の夢声日課だった。夜にはたいてい酒が入る。時局・世相ともに面白からずして、家にあっては不機嫌な仏頂面で無口に過す日常だのに、舞台では暢気な喜劇を演じている自分に釈然としないのだ。客はじつに好く入った。よけいに気持は複雑だった。
 だが前夜12月7日はつねの酒とは段違いに、たいそう痛飲した。阪急会館の近くに岸井明行きつけのフグ料理屋があって、女将が熱烈な夢声ファンだという。夢声が神戸へ来る機会でもあったら是非お誘いのうえでと、かねがね女将から頼まれていた岸井の案内で、その店の暖簾をくぐったのだった。
 座はおおいに盛上った。日付も替った夜中に店を辞すことになり、二階座敷から階段を降りてみると、一階の平店はすでに灯を落していた。階段下まで見送りに降りてきた女将に、なりゆきと勢いとはいえ、夢声はキッスしたりした。
 その頃ちょうど、真珠湾での爆撃が開始されていたのだと、翌日のラジオ放送で知った。

 ラジオで聴く大本営発表によれば、緒戦の戦果は赫々たるもので、わが耳を疑うほどだった。隣にいる岸井明のみならず、ラジオをぐるりと囲んだ見ず知らずの宿泊客や従業員たちとも、抱き合ったり肩を叩き合ったりした。だれからとなく「万歳」の喚声も挙った。
 むろん夢声は対英米開戦礼賛者でもなければ、覇権主義的思想の持主でもない。むしろ真逆な人柄だ。その人でさえ、いわゆる ABCD 包囲網によって真綿で首を絞められるかのように、日本がじりじりと追詰められて、眼に見えて窮屈になってきた世相に苛立つ気分が、胸の内をどんより重く暗くさせていたのだ。
 さすがにその日は、客の入りもさんざんだったという。

 以上は『徳川夢声戦争日記』に動かぬ一次資料として、正直に記されてある。戦後になってから語り直され、また既発表の文章を按配された回想録『夢声自伝』を参看して補った。
 こういう本は、けっして古書肆には出さない。今日にあっての市場価値とはいっさい関係ない。

 志賀直哉の日記だったか随筆だったかに、こんな意味の一節があった。
 「前日までは、英米を向うに回しての開戦など、正気の沙汰ではないと思っていた。取返しがつかないことになるぞと危惧していた。だが開戦してしまった。こうなってしまった以上は、なんとか巧くやってほしいものだ、負けないでほしいものだと考えた」
 文壇の大御所志賀直哉が、戦争を容認する考えの持主だったなんぞと、トンチンカンな断罪の弁を大声で発する論客が、戦後の論壇には現れた。薄っぺらな論だ。

 開戦の報を眼にしたさいの気持について、広津和郎は後年こんな意味の回想をしている。
 「マズイことになった。国民は凄絶な苦難を免れまい。だが良くも悪くも、これで方向がはっきりした。長いあいだ胸につっかえ、頭に覆いかぶさってきたモヤモヤが晴れて、いっさいがくっきりした想いが、たしかにあった」
 日本近代文学史にあって、屈指の文学回想録のひとつと称んでいい『年月のあしおと』のどこかにあったと記憶する。
 明治以降の日本文壇にあってもっとも聡明だった作家と定評のある広津和郎でさえ、かような心の動きだった。徳川夢声の反応にも一脈通じる。

 戦時中、志賀直哉が面談した回数のもっとも多かった相手は、白樺派の仲間たちのだれでもなく、広津和郎だったと云われる。広津が頻繁に志賀家を訪問したようだ。要らぬ聴き耳を立てて横槍を入れてくる、情報局だの諜報部だの憲兵隊だのに気兼ねすることなく、嘆かわしい時局や腹立たしい者どもを、思うさまこき下し合って憂さを晴らしたという。
 書画骨董や芸術全般についての、人並外れた審美眼の持主だった両雄だから、その面でも、さぞや噺の種は尽きることがなかったのだろう。白樺派の志賀と早稲田派の広津というような紋切型の文学党派観では理解及ぶべくもない、生きた人間の取合せだ。
 人の心持というものは、図形ではなく運動である。存在物ではなくエネルギーである。