一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

いっ!

 「いっ!」。自前で飲むようになって半世紀近い。ボトルサインはこれ一本でやってきた。地元のスナックであれ、新宿であれ、六本木であれ、酒場のキープボトルについて、これ以外のサインは私にはない。

 南大塚の「ケニーズバー」が、今日で店を閉める。最終日はご定連がたでごったがえすことだろうから、昨日顔を出した。同様にお考えになられたかたもあったと見え、懐かしいお顔がそろい、久かたぶりの挨拶が飛び交った。

 西池袋~千早町~池袋北口~南大塚と、この店の歴史は長い。大学の JAZZ研 OB のマスターが一人で、手の空いたときには奥さんがお手伝いなさって、やってこられた。

 肩のこらない自由な空間を提供したいとするマスターのお考えが、歴代いずれの店にも貫徹されていて、JAZZ が看板の店とはいっても、スゴ味を利かせたような JAZZ キチとは無縁の店だった。
 千早町時代には、ほんの六畳間ほどの小体な店だったにもかゝわらず、落語会を催した。定連に、当時二つ目さんだった若手の噺家さんがたがおられて、勉強のためにはどんな空間であっても一席でも多くライブをやりたいとの情熱に、マスターが応えて実現した。

 池袋北口時代は、グランドピアノも入った広い店だった。ジャズメンが寄合って、多くのライブ演奏会が催されたが、落語会も発展的に継続された。かつての二つ目さんがたがそれぞれ真打に昇進なされ、看板となられていた。開催日には、整理券を求めるお客さまで、店の前に行列ができた。

 私までが喋らせていたゞいた。ご定連の文学好きご夫妻が、大学にまで足を運んでくださり、私の講義をモグリ聴講なさっていたものの、毎週モグリは差障りもあるとのことで、ならばいっそのこと、文学談義を出前してみてはとの、冗談から始まった企画だった。
 ひと月おきに年六回。足掛け十四年間。九十回近いトークライブをやらせていたゞいた。すべて録音されて、マスターお手製の CD として残っている。
 ジャズメンにはライブ後に自分の演奏をチェックする必要から、録音する習慣がある。機材完備したケニーズバーでは、レシーバーを耳に当てたマスターが、きれいに音量やバランスを調節して録音してくれている。その伝で、私のお喋りも収録してくださった。
 一夜興行で CD 二枚。百八十枚ほどの CD が残っている。
「シャベクリだけの CD 枚数で云やあ、円生、米朝、談志、オレだろうな」と笑いを取りに出ることもある。「たゞし、芸の高さは問うなよ」と、すぐさま付け加えるけれども。
 

 マスターは根が理科系の人であるうえに、画家としての顔ももっている人なので、店の模様替えやちょいとした造作など、なんでも自分で器用にやってしまう。
 店が移転しても変らぬ手造り看板は、ケニーズバーのトレードマークとすらいえよう。JAZZ ファンなら一目瞭然。ブルーノート・レーベルのレコードセンターである。懐かしい。このデザインを眼にするだけで、かずかずの名演・名盤の音色がよみがえってくる。

 開店前に伺って、店の内外から近所一帯まで、心ゆくまで眺めた。
 そうだ、奥の壁のパブミラーは、池袋北口の店が開店したときに、私から贈らせてもらったのだった。お互い、四十代だったかしらん。元気あったよねぇ。

 飲みかけのキープボトルを引取らせていたゞいて、店をあとにした。
 中身は六分目ほど。今月一杯はもつまい。ボトルは永久保存品となろう。
 このボトルサインをする機会も、もはや生涯あるまい。