一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

作者を探す(二十世紀の台詞たち⑤)【6夜連続】


 今回もちょいとした、お古いお噂をひとつ。昆林斎胡内でございます。

 いずれの芸術分野におきましても、二十世紀は懐疑の時代、疑いの時代でございました。
 画家たちは色や形を疑いましたですな。音楽家たちは音色やリズムや音階や和音を、疑いましたようで。

 文学におきましても、今回はお芝居の台詞を例にしておりますが、事情は似ております。人間は木石にはあらず、草木虫魚にはあらず、人間だけが持っております価値観・美意識・道徳観・宗教観そのほか、十九世紀までかけまして営々と積上げてまいりました常識を、改めて吟味にかけるかのように、根柢から疑って見せたのが二十世紀でございました。言葉の機能を疑い、人生の意義を疑いました。
 エドワード・オールビーやサミュエル・ベケットの登場は、既成概念を疑い、あざ笑い、否定する仮説に充ち満ちておりました。核心には、この現実世界が信用ならぬ、さらに一歩踏込んで、この眼に見えるものがまことに実在するのかすら疑わしいとする、途方もない疑念が巣喰っておりました。
 客観的実在と幻想との入り乱れた交錯、それどころか価値逆転。また誰もが当りまえに抱く自己肯定の欲求や願望を、あえて虚妄と決めつける態度。そうした二十世紀文学の黒い喜劇性の系譜を考えます場合に、どうしてもご登場願わねばならぬ作家が一人おります。

 一九二一年にローマで初演されましたお芝居『作者を探す六人の登場人物』。作者はルイジ・ピランデッロ(1867~1936)と申します。近年では、取沙汰される機会も上演される舞台もめっきり減りましたので、お耳馴染のないお客さまもおいでかと存じますが、イタリア人、かのシシリー出身の巨大な作家でございまして、一九三四(昭和九)年にはノーベル文学賞を受賞してもおります。
 作品数のしごく多い作家でして、全作品が日本語訳される日が来ようとは、とうてい考えられません。ある奇特なおかたが数えましたところ、数えやすい長篇小説は別として、短篇小説二百十一篇、戯曲四十三篇にもなりますそうで。
 一九二一年初演とはまた、オールビーやベケットから思いきり遡りました。じつはこの間に、世界的大不況を経て第二次世界大戦の時代を挟みますので、文学・芸術も、反戦、抵抗、非合法、貧困、戦後混乱など、眼前の政治思想問題に忙しくいたしておりまして、芸術技法の問題はやゝ棚上げになっておりました。
 さてそれでは、今宵採りあげますは『作者を探す六人の登場人物』。当時世界の文学者・演劇人の度肝を抜きました前衛的お芝居でございます。

 ―― 客席に入りますと、見えますのは幕もない裸舞台。装置などなく、不揃いに椅子が数脚。隅っこにはピアノも見えます。大道具係が材木に釘を打ったりしております。
 客席通路から台本片手に男が登場。どうやら演出家です。舞台奥からは、また上手からも下手からも、リラックスした男女がてんでんばらばらに登場。無駄口叩いたり、ストレッチしたり。どうやら芝居の稽古場のようでございます。
 「はい、休憩終りぃ。二幕の頭からでぇす。出番の諸君だけ前へ。大道具さん、立ち位置から寸法測っておいてね。プロンプター、オーケー? では、台詞ぅ」
 台詞から察するに、ピランデッロの旧作のようです。これから稽古が熱を帯びるかというところで、客席から守衛がつかつかとやって来て、演出家に歩み寄り、なにやら耳打ち。
 「困るよ、これから稽古だ。そっちでなんとかしてくれよ。なにぃ、もう来てるって?」

 ―― ほんとだ。いつの間にか扉近くには、初老の男女、若い男女、少年少女の六人が、揃いも揃って喪服のような黒づくめのなりで、さよう、スーパーのブナシメジみたいに根っこが繋がっているようなひと塊になって、立っておりました。
 初老の男(主役です)「作者の先生はどちらにおられますか? 私どもは作者を探しておりますのですが」
 演出家(マァ準主役ですね)「邪魔だ。観てのとおり芝居の稽古中なんだ。出ていってくれたまえ。警備のものを呼びますよ。それに、ここに作者はいません。ピランデッロっていってね。この台本を残したまんま今ごろはどこかで。やれやれ」
 「では、あなたさまがこちらの先生さまで」
 「先生じゃないがね、いちおう演出担当です」
 「いーじゃないの、それでもぉ。云うとおりに書いてくれればいーんだもの」
 若いほうの女です。あだっぽいと申しますか、ちょいと色気のある美人です。
 「これこれ」と制した初老の男。「あなたさまが演出家。ということは、ほかの皆さんは役者衆というわけで」
 「裏方も何人かいますがね。ってか、今すぐ出てゆかないと、手荒なことはしたくないが、人を呼ぶことになる」

 ――「皆さんは、作者が書いた台詞を、ご自分のことでもないのに、あたかもわが身の上のことででもあるかのように、演じなさるわけでございますよね」
 「そりゃあ役者ですから。出来栄えはどうぞ、観にいらっしゃい。ってか、大きなお世話ですよ、なに者なんだね、あんたらは」
 「これは失礼、私どもは役なのです。私ども自身の芝居を一本、ここに携えてまいっております。ただそれを書き表してくださる作者を、探しておりますんで」
 「……なんですってぇ?」
 それまで怪訝そうに噺のなりゆきを見守っていた役者たちは、いっせいに大爆笑。手を叩き、顔を見合せ、口笛を吹くものもあります。嗤われたことに我慢ならぬと見え、若い女が一歩踏み出しました。
 「本当なのよぉ。この男(と初老を指して)のおかげでアタシたち、ひどい暮しをさせられてきたんだから。今日という今日は、アタシたちの芝居を作者先生にお終いまで書いてもらって決着をつけなきゃ。もう何人にも断られてきて、こちらにおすがりするしかないんですもの」
 「さようでございます。すべては私が元凶と(若い女を指して)あれは申します。終始よかれと思っていたしましたことが、誓って申しますが、本当によかれと思って…。ところが結果として、かくもおぞましき次第に至ったとなれば、まことに罰せられるべきは私でございまして、贖罪の気持から、この芝居を終幕まで演じきりたいと切望いたしておるのでございます」
 「へん、綺麗ごと云うんじゃないわよ、偽善者野郎! そんなこと口にしながら、アンタはいつも自分を正当化してきたんじゃないの。この芝居だって、最後までアンタは……」
 「ちょ、ちょっと待って」と演出家。「おたくらは、その芝居とやらの結末を、もう知っているのかね?」(なんだか、ペースにはまりかけておりますようで。)

 ――「なにをおっしゃいますか、先生。私どもの身の上に、実際に起きたことでございますよ。ただ作者先生がお書きくださりませんばかりに、最後まで演じきれずにおるのでございますよ」
 登場人物たちのあまりの真剣さに、それまでニヤニヤしていた役者たちのなかにも、聴き耳を立てる者や、若い女のコケティッシュな色気に露骨に興味を示す男優や、それを小突く女優がおります。
 「ちょ、ちょいと整理させてもらうがね。あなたたちご家族に、なにやらいざこざが、あったようだね」
 「さようでございます」
 「あなたは、心中に葛藤があって、自己処罰を望んでいる。あなたは(若い女に)心中にわだかまるものがあって、こちらへの復讐と望んでいる」
 「そうよ、そう云ってるじゃないの」
 「それは、あなたたちの実人生なわけだよね」
 「いかにも。おっしゃるとおりでございます」
 「それがなぜ芝居で、その芝居の最終幕まで仕上げるための作者を必要としているんだろうかね」
 「先生ったら、アッタマ悪いんじゃない?」
 「これこれっ、ご無礼いたしました先生。ですが、おそれながら先生、なにか根本的な勘違いをなさっておいでで。皆さんは(と役者衆に)芝居を了えれば、私生活がおありなさる。ご家族もおありなさる。ですが私どもには、これ以外の人生はございません。なんとなれば、私どもは役でございますから。唯一の人生が、いまだに段落も大団円も迎えられぬまゝに、過しておるのでございます」
 「そっ、そこんところが……」

 ドタバタちぐはぐのすれ違いはまだ続きますが、しだいに判ってまいります六人の関係は、どうやらかようなことのようでございます。

 初老の男(父)と初老の女(母)とは、かつて夫婦でございました。一子が終始寡黙な「若い男」(息子)でございます。かつて父の仕事上の助手(登場しません)と妻とが、ねんごろとなりました。察知した父は、あろうことか妻と助手との不倫関係がいっそう深みにはまるような策略を講じたのです。結果として夫婦は別れ、妻は助手と再婚いたしました。産れましたのが「若い女」「少年」「少女」の三人でございます。三人は「若い男」とは異父の兄と妹弟の関係となりますですね。盛んにやり合っているのは、義父と義娘ということになりましょうか。
 子だくさんの再婚家庭はことのほか貧しく、長じると義娘は一家を支えるべく、娼婦館で接客婦となりました。ところがなんということでしょうか、ある夜その館に、義父が来店。よりにもよって義娘の客となったのでした。枕語りに話すうちに、その裕福な客が母の先夫と知った義娘は、長年にわたる自分たち一家の云うに云われぬ苦労の、そもそもの元凶はこの男だったのだと、思い込むにいたりました。
 おりしも今からふた月前のこと、三人の実の父(かつて義父の助手でした)が貧窮のうちに他界いたしました。六人が喪服を着ている理由でございます。悲嘆にくれた義娘は、一家の不幸の元凶である義父への復讐を心に誓ったのでした。
 いっぽう義父のほうも、一家のこれまでの歩みを初めて知って胸痛み、今さら手遅れながら自分を責めているというわけでごいます。

 脇役どころでざいますが、まず母。正直で単純な人柄。たゞし今進行しているのが芝居だということを理解できず、本気で卒倒したり泣きわめいたりしては、しばしば芝居を脱線させてしまいます。観客席から観ますと、同情いたしかねるほど愚かしく喜劇的な女性でございます。
 その母とはわずか二歳のとき別れわかれになったきりだった若い男(息子)は、たゞ今申しますところの引籠り少年として育ちまして、なにごとにも関心薄く、この芝居にも乗り気ではございません。舞台を降りて客席に腰掛けてしまうような態度をとる始末です。芝居へののめり込みという点では、母親と正反対の人物。
 二人は芝居の内と外、また虚構と現実の混乱という、ピランデッロ一流の込入った思索のうねりを表現いたすための仕掛けとなっております。
 それにいたしましても、ほとんど台詞のございません「少年」と「少女」の二人。終始うなだれて眼も虚ろに精気なく、さながら腹話術師の手を離れた人形のようであるのが、気になります。

 そんな面々によって織りなされる家庭内愛憎劇に、始めは冷笑的だった演出家氏でしたが、なんと徐々に興味を惹かれるようになってゆきました。彼は月並みな常識人、いえはっきり申せば計算高い典型的な俗物。近ぢか幕を揚げる芝居が評判を取れさえすれば、なんでも好いのです。
 ――「ピランデッロの旧作なんぞより、面白いかもしれん。だいいち装置も衣装も、安あがりだ。稽古だって、この人たちの云うとおりを、役者たちになぞらせれば足りる。ここは一番、やってみるか。(義父と義娘に)とにかく、お話を伺いましょうか。さ、あちらで。えー、役者諸君、スタッフ諸君も、休憩でぇす。二十分後に稽古再開。再集合してくださぁい。あっ、あなたがたもどうぞ」
 客席には灯りが戻り、劇場は、いえ舞台上のではなく観客が腰掛けているこの劇場が、二十分間の休憩に入ります。つまり芝居は、第一幕の終了でございます。

 芝居のなかに芝居がある、いわゆる劇中劇の構造。また一方で、芝居の外に現実があると見せて、さらにその外に本当の現実がある。虚構と現実、幻想と実在についての、なにやら悪意すらありそうな、込入ったカラクリが仕掛けられてありそうです。
 時代は第一次世界大戦終息後まだ数年。ヨーロッパは戦後復興期を迎えつゝも、芸術家たちは大戦争によってあらわになった、新たな思想的不安に直面しておりました。のちに二十世紀芸術の特質とされることになる諸問題の萌芽が、あっちにもこっちにも芽吹いてまいったのでございました。象徴的典型を一例のみ挙げるといたしますれば、この芝居のわずか二年後に、フランス詩人アンドレ・ブルトンによる『シュールレアリズム宣言』が書かれる、さような時代でございました。

 こゝが興味尽きざるところなのでございますが、だいぶ夜も更けてまいりました。『作者を探す六人の登場人物』第二幕は、また明晩ということとさせていたゞきます。
【二十世紀の台詞たち⑤】