一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

虚実喪失(二十世紀の台詞たち⑥)【6夜連続・最終夜】


 今宵もお運びさまで、ありがとうございます。昆林斎胡内にございます。

 とある劇団の稽古場で起きました、ちょいとした事件のお噂。公演日迫りまして、稽古もいよいよ熱を帯びようかというとき、なにやらわけあり気な六人が闖入してまいりました。訊けば彼らは「役」と名乗り、自分らが織りなす芝居を持参してきたと申します。それを書きあげてくれる作者を、探しにまいったそうで。
 正気とも思えぬこの者たちを、演出家は追出そうといたしましたが、無理やり始まってしまった「役」同士の口論に巻込まれて、事情の一端を耳にいたしますうちに、ふと閃きました。ピランデッロの台本なんぞより、この連中の実話を上演したほうが、興行的に当るのではないかと。噺だけでも、聴いてみるか……。
 『作者を探す六人の登場人物』第二幕以降でございます。作者はイタリアのルイジ・ピランデッロ。一九二一年に初演されました。

 ――「役者諸君、揃ってるね。演目を変更します。なぁに、この人たちの説明を聴きながら、口立てで稽古できます。配役だがね、(義娘を押出して、看板女優に向い)まずこの娘さんを君。頼みますよ、この芝居の鍵ですからね」
 「キャーッ、受けるぅ。駄目よぉ、ダメダメ。全然アタシに似てないじゃん」
 「(ムッとして)失礼ねえ、娘さん。お前さんの役なんぞ、お前さん以上にうまくやって見せるわよ」と看板女優。
 「それって、意味解んないんですけどぉ」
 「これは芝居だからね」と演出家。「彼女はあなたの役を、ものの見事にやって見せるはずだ。こゝは我われ玄人に任せて。お願いだから、指示するまで黙っていてくれたまえ」
 「さよう、こゝは先生にお任せして、黙っていなさい」と義父。
 「アンタに云われたくないわよ」
 状況の把握には、まだだいぶ食違いがあるようでございます。

 ――「さて女郎屋の、いや失敬、社交館の女主人、えーと」
 「マダム・パ―チェよ」
 「名前など、どうでも」
 「いけないわ先生、マダム・パ―チェは誇り高い女性よ。マダム・パ―チェとお呼びしなければ、返事もなさらないわ」
 「解った解った、マダム・パ―チェ、それでいゝ。演じるのは、君」
 「キャハーッ、顔も貫禄も、違い過ぎるわ」
 「黙れっ、何度も云わせるな、客も我われも誰一人、本物のマダム・パ―チェなんか知らないんだ」
 「あら、そうだったの」
 とそのとき、突如として舞台奥中央に、装置が破壊されたかと錯覚するほど巨大な穴がポッカリ開いて、まばゆいばかり強烈な照明。中からでっぷり太った老婆が現れます。馬鹿でかい赤髪のかつら。どぎつい化粧。キラキラと照明を反射するけばけばしいドレス。喪服姿の六人や稽古着姿の劇団員ばかりのところへ、一人だけ夜間遊園地のようです。
 「マダムゥ」義娘は駆寄ります。
 「なんだこれはっ、変な仕掛けを使わないでくれ」
 「コワーイ」「どこに隠してたの」「なんの真似だ」「手品か」「私やだ、もう」
 演出家も役者衆も一様に、腰を抜かさんばかりの魂消ようでございます。

 さてお客さま、劇場のではなく本日の。
 舞台はいよいよもってピランデッロらしくなってまいりますが、なんといってもノーベル文学賞作家によります世界的名作。第二幕三幕、一部始終をお伝えするとなると、さすがに胡内の手にも余ります。こゝは一足跳びに幕切れの、夜の場面へとまいりましょう。

 ――「キャーッ、あの子が、あの子がぁ」母親の悲鳴のごとき金切声。
 「助けようとしたんだ、本当に。でもすでに……」
 けっして芝居には関らぬと、冷淡にうそぶいていた青年が、この一場面だけは
視るに視かねて、溺れた少女を助けようと駆けつけたと見えます。
 「だれにも触らせないわっ」
 ザブザブと池に踏み入った義娘は、半身を水に浸けたまゝ、少女を胸に抱き締めます。
 「もとはといえば、すべてアンタが」
 「さよう、私の罪です。が、神に誓って私は……」と義父。
 さすがに黙っていられなくなった演出家。
 「そんなことより、早くなんとかしなければならんのでは。ってか、だれだっ、こんなとこへ水槽なんぞ置いたのは?」
 「無理でございます先生、役は自分の宿命を最後まで演じ切らねばなりません。勝手に書き換えたりはできぬのでございます」
 「ということは、さっきなぜあんな小さな男の子が、ピストルなんぞ持って裏へ……」
 「はっ、そうだったわ。坊や、坊やぁ」もう一度、母親の金切声。
 「かわいそうに、アレはまだ、自分が役だとは、解らぬらしい」義父は元妻を気の毒そうに見送るばかり。
 「そうよ、アンタはいつもそうやって、解ったような顔をするだけで……」
 義娘はまだ、ずぶ濡れの亡骸を胸に抱き締めています。

 ――演出家には、まだ事態が掴めません。というより、信じられません。
 「あのぅ、ちょっと確認なんだが、これは芝居だよね。ウチの役者たちに粗筋を示してくれるための、実演だったよね。そうでしょ?」
 舞台奥、衝立の向うから、ズダーン。「坊や、坊やぁ」と悲鳴が。
 「なんだ今度は」「どうしたっていうんだ」役者衆は全員走って、衝立の向うへ。
 義父は平然と、演出家に説明を続けております。
 「さようでございますとも。我らの身に実際に起りました劇を知っていたゞくために、皆さまにご披露いたしております、私どもの実演でございます」
 衝立の上手を回って、役者衆の半数が戻ってまいります。
 「かわいそうに」「ひでえもんだ」「死んじまったぜ」「そんなのアリかよ」
 衝立の下手を回って、もう半数の役者衆が戻ってまいります。
 「嘘に決ってるだろう」「死ぬはずなんて」「人騒がせねえ」

 舞台前面に進み出た演出家。観客に一番近いところで、
 「いゝ加減にしてくれ、本当だろうが嘘だろうが知ったことかっ。事実なんだか幻想なんだか、俺にはもう、さっぱり判らん。それより、どうしてくれるんだっ。稽古が台無しじゃねえか。今日は終りだ終り。照明さん、全部消してくれっ」
 パチン、場内真っ暗闇となります。
 「ってか、いきなりかよ。歩けねえじゃねえか。足元ひとつくらい……」
 衝立と見えていたのは、じつは巨大スクリーンでした。気味の悪い四人の登場人物が影絵となって浮びあがります。
 ―― 幕。

 さてお客さま。六夜に渡りましたる無駄噺、そろそろ大詰でございます。
 エドワード・オールビーは申しました。自分が書く台詞はバラストであると。人間関係とは、空洞化した言語によります仮想のコミュニケーションに過ぎないと。
 なるほどさようでもございましょうが、その考えには先駆がございまして、サミュエル・ベケットはすでに申しておりました。そもそも人生が、また人間の在りかた自体が、とうに主体性を喪失していて、自己決定も存在証明もできぬ状態であると。
 なるほどさようでもございましょうが、その考えには先駆がございまして、ルイジ・ピランデッロはすでに申しておりました。空想のなかの切実な人生と、現実の形骸化した人生とでは、いずれに存在感があるのかと。またかように申してもおりました。現に在るこの自分と、自分の裡に棲みついたもう一人の自分とでは、いずれが自分自身なのであろうかと。
 どうやら手前どもは、二十世紀文学のかなり根っこ近くまで降りてきた、との手応えがございます。

 十九世紀文学の偉大な作家たちは、この世の人間模様を嘘偽りなく、ありのまゝに描き出そうと企てました。リアリズムでございますね。そのさいに、人間の性格・個性、また良心・理性、ひっくるめまして人間性というものを、表現の単位とも根拠とも手段ともいたしました。
 二十世紀文学の作家たちはそれらに対して、ひとつまたひとつと、丁寧に疑問符を突きつけてまいりました。
 共感する、理解するという心理的機能に対しましても、さてどんなもんだかと、懐疑の眼を向けてまいりました。個性を表現し、理解や感動を支えてくれていたはずの言葉さえもが、もはや自分独自のものとは信じられないとの指摘にまで、到達したわけでございます。
 二十世紀芸術はまさしく、疑いの芸術でございました。

 ではいつからなぜに、かようななりゆきと、あいなりましたのでございましょうや。それにはまた別の、お噺を申しあげねばなりません。もともと長かったお噺から「二十世紀の台詞たち」部分のみを申しあげまして、ひとまず一段落とさせていたゞきます。
 六夜にわたる長時間、お客さまがたにおかれましては、なんともお疲れさまでございました。どなたさまもお帰り道どうかご無事にて、お戻りくださいますように。それではこれにて、ごめんくださいまし。
【二十世紀の台詞たち⑥】